時にひとりで過ごしたくない夜

「ねえライカ、どうしてこんなにベッドがぐしょ濡れになっちゃうのよ？」

　バスルームから出てきた彼女は、髪のしずくをタオルでぬぐいながら言った。
　近いほうのベッドは、金魚鉢をひっくり返しでもしたみたいに、ぐしょ濡れになってしまっている。

「おまえのせいだろ、決まってるじゃないか」
「そんなわけないでしょ！」

　言葉と一緒に投げつけた枕を、ひょいと首だけ動かしてよける彼。
　フットライトだけの薄暗い部屋の中で、鮮やかによけたものだと彼女は思う。

「悪いな。俺のせいなんだ。無意識に呼ぶんだよ」
「呼ぶって？」
「水分補給。長いこと〈おか〉にいると、どうも渇いちまっていけない」
「なによそれ」
「俺、じつは海の底に住んでるんだ。仲間に出会うことも滅多になくて、たまに寂しくなっちまうんだよ。
　で、こんなふうに〈おか〉に上がって女を引っかけてるってわけ」
「あんた人魚だとでも言うの？　ぜんぜん面白くないわよ、そのジョーク」

　無事なほうのベッドで腹ばいになり、金茶の髪をかきあげる彼。
　くすくす、さもおかしそうに笑う。

「ご想像におまかせしますよ、フロイライン」
「だいたい、ライカって名前、偽名でしょ？　カメラの名前じゃないの」
「第二次大戦中に、ドイツ人のじーさんがそう呼んでたんだ。気に入ったから、それ以来ずっと使ってる」
「嘘つき！　どう見たって二十歳そこそこのくせに」

　彼女はすこし怒ったふりをして、洗い髪をタオルで拭きつづける。
　彼はそっと立ち上がると、バスタオルを巻きつけただけの彼女を後ろから抱き寄せる。
　はらり、タオルが床に落ちた。
　乳房から腰へ、慈しむように手のひらを這わせる。

「人間の女ってのは、どこもかしこも信じられないくらい柔らかいな」
「あたし、柔らかいの？　人魚の女よりも？」
「人魚はイルカみたいに一日中泳いでるからな、しなやかで、引き締まってるよ」

　妙な遊びだとは思うが、調子をあわせるのは楽しかった。
　人魚の男と一夜を過ごすのも悪くはない。

「人間の女は嫌い？」
「大好きだよ。特に、おまえはな」

　唇にキス。もうひとつ、それから何度もキス。
　顔から首筋、触れた場所すべてに官能を残してゆく、彼のキス。

「やだ、せっかくシャワー浴びたのに」
「帰るつもりはないんだろう？　朝までは一緒にいてくれよ」
「ふふ。見掛けによらず、さみしがりなのね」

　彼の、やわらかな若葉色の瞳がたたえる光と、頭の芯を蕩かすような愛撫。
　やがて彼女は身をよじり、吐息をもらし始めた。
　だが、ひとつになろうとする彼を、かろうじて押しとどめる。

「あん……　ちょっと待って」
「大丈夫だよ。おまえの〈潮〉は満ちてない。子どもなんか、できやしないよ」

　彼は苦笑し、彼女の髪に優しく頬を寄せた。



　シーツの海で抱き合って眠りながら、彼女は夢を見た。
　深い深い海の底の夢を。

　そこには圧倒的な孤独があった。
　叫んでも、呼びかけても、応えるものはいない。
　どこまでも広がる茫漠とした海水のただ中で、彼はひとり、永遠に近い時間を生きている……

　ほんとうに、さみしかったのね。

　我慢できないほどじゃないさ。
　ただ、時にはこんな夜もあるんだ。



　翌朝。
　彼女が目覚めると、すでに彼の姿はなかった。
　ベッドサイドのテーブル、灰皿の上になにか白くひかるものがある。
　こらえきれずに流した涙のような、大きく美しい一粒の真珠だった。

おしまい　 　ひとつ戻る