惣ちゃんの（優には）意外な一面

　かすかに、空気を裂くような音がした。
　水槽の中で優が顔を上げると、惣一郎のデスクのそばに龍一が立っているのが見えた。
　彼はその能力でテレポートしてきたらしい。長い前髪の間からのぞく紅い瞳は、まばたきを
　ひとつすると黒褐色に変化した。
　黒いタンクトップにジーンズ、スニーカーというありふれた格好だが、むき出しの腕や肩が
　傷痕だらけなのが目を引く。傷のないのは、左肩をぐるりと取り巻くひきつれた傷痕から先の
　部分だけだった。もっとも本人は傷痕が他人の目にどう映るかなど、まったく気にかけてはいない。

　ちゃぷ、とちいさな音を立てて優は水面に顔を出した。
「こんにちは、速水さん」
　屈託のない笑顔であいさつする。
「あ、ああ」
　龍一はすこしばかりとまどった様子で応じた。自分も人外の血を引いているくせに、『人魚』
　の存在にはどうも違和感を覚えているようだ。
「惣は？」
「中央棟のダイビングプールにいるよ。速水さんには見えるでしょ？」
　優の言葉に、龍一は視線をさまよわせた。遠隔視の能力を持つ彼の視界には、別棟にある
　インドアプールと、そこにいる相棒の姿が捉えられる。
「見えるよ。ありがとう、優」
　穏やかな笑みを残して、龍一の姿は消えた。


　惣一郎はちょうどダイビング用のプールから上がったところだった。マスクを額に押しあげ、
　肩からタンクとＢＣを下ろす。明るい色の髪が濡れて頬にはりついてくるのを、うるさそうに
　かきあげる。
「惣！」
　友の呼びかけに振り向き、惣一郎は柔らかい笑みを見せた。
「龍一。どうしたんだよ」
「飯でもどうかなと思って。ラボに行ったら、優がここだって言うから」
「今日はもう終わりだからな。いいよ、一緒に食べよう」
　言葉の途中でふと気付いたように訊ねる。
「バイクで来たにしては軽装だな。もしかして、跳んできたのか？」
「ＲＺが修理中なんだ」
　惣一郎は器用に片方だけ眉を上げてみせた。
「お前でも転倒したりするんだな」
「俺がコケるわけないだろ？　焼き付かせちまったんだよ。新しいピストンが来たら、エン
　ジン組み直しだ」
「バカだなあ。年代ものなんだから、もっと大事にしてやらなきゃ」
　軽口をたたきあい、笑い合う。
　なんでもない時間が、ふたりにとっては何より貴重だった。

「じゃ、支度してこいよ。俺はラボで待ってるから」
「優も連れていこう。いい店知ってるんだ」
「俺は構わないけど、あの子は水から出ても大丈夫なのか？」
　心配そうな龍一に、惣一郎はくすりと笑った。
「もちろん大丈夫だよ。おまえが大気圏外に出ても平気なのと同じ程度にな」
　冗談とも本気ともつかない返答に、龍一は複雑な表情だ。その顔に惣一郎はまた笑う。
「ったく、いまだに冗談が通じないんだからなあ。半日くらいは平気なんだよ」


　優が人間の姿になったのを見て、龍一は目を丸くした。
「……器用なんだな」
　惣一郎は龍一の左腕をぽんぽん叩く。
「この腕、いっぺん失くして、再生したんだろ？　そういうことのできる奴が、いちいち
　驚くなよ」


　新宿に出て目当ての店に着くまでに、惣一郎は二度もチンピラにからまれた。
　別によそ見をしながら歩いているわけでもないのだが、よほど因縁をつけやすそうな顔
　に見えるのだろう。
「兄ちゃん、バカにしてんのか？ ゴメンですめば警察は要らねぇんだよ」
「ぶつかってきたのはあなたの方じゃありませんか」

　鋭敏なテレパシー能力を持つ優は、チンピラの発する凶悪な思考波におびえているよう
　だ。龍一は力づけるように優の手を握った。
（安心しろ、優。たとえあのチンピラが懐のバタフライナイフを出したって、おまえに
　も惣にも、手出しさせたりはしない）
　思考を送ると優は龍一を見上げ、ぎゅっと手を握り返してくる。
（でも、こんなところで力を使うわけにはいかないでしょ）
（周りに気付かせないで、あいつのアバラを折ることぐらい簡単だ。けど、これくらい
　惣はなんとかできる。見ててみな）
　心の会話が聞こえたはずはないのだが、惣一郎は二人をちらりと振り返って余裕の笑み
　を見せる。

「わかりました。骨が折れたと言うんですね」
「ああ、痛くてたまんねぇよ」
「じつは僕、そこの大学病院に勤務してるんです」
　邪気のない笑いを浮かべ、しゃがみこんでチンピラの足を診るふりをする。
「これは……　すぐ手術した方がいいですね。外科は専門じゃないんですけど、切断手術
　くらいなら僕にもできます。じゃ、一緒に行きましょうか」
　うつむいたときに顔にかかった髪をかきあげ、静かに微笑む。脅すわけでも、怒鳴るわ
　けでもない。なのに惣一郎の言葉には奇妙な迫力があった。
　チンピラは気おされ、
「ばっ、バカヤロ！　この薮医者が」
　捨てぜりふを残して走り去った。

「骨が折れたわりには元気だな」
　龍一が苦笑まじりに言う。
「逃げるくらいなら、からまなきゃいいのにね」
　優も安心したように息をついた。
　ほっとしたのもつかの間、店に行きつくまでにもう一度、惣一郎はがらの悪い男にから
　まれた。二度目は龍一が割って入り、無言でひとにらみしただけで退散させた。
「あんなのをいちいち相手にしてたら時間の無駄だろう」
　憮然とする龍一。彼の言ったことは正論だが、じつは相棒のことが心配なのだ。惣一郎
　がチンピラごときに屈することはないと分かっていても。

「さ、着きましたよ、ふたりとも。ここのお魚は新鮮ですからね、優くんの口にも合う
　と思いますよ」
「どうせ惣一郎のおごりなんだ。遠慮しないで食えよ、優」
「あのなあ龍一、おまえの分は払わないぞ。誘ったのはおまえなんだからな」
　優は惣一郎の口調のあまりの落差にくすくす笑ってしまう。
「野田さんって、速水さんとしゃべるときだけ、口調がぜんぜん違うよね」
　惣一郎は、優の指摘に一気に赤面した。ポーカーフェイスが得意で「ステンレス・スチ
　ール・ハート」などといわれた彼には考えられないリアクションだ。
　真っ赤になったまま絶句している惣一郎に、龍一もくすりと笑う。彼は背の高い相棒の
　背中をぽんと叩いて言った。
「こんなとこに突っ立っててもしょうがない。さっさと入ろうぜ」

　そして。
　この晩、優は惣一郎の意外な一面をたっぷりと見ることになったという。

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