終局の予感

　炎が部屋を包み込み、あらゆるものを舐めている。
「叶（かのう）さん！」
　伸ばした手のすぐ先で、葉子はくずおれた。恐怖と緊張が極限に達したらしい。
　龍一は葉子を抱き上げ、ひっきりなしに舞い落ちてくる火の粉を『力』で弾き飛ばす。
　燃えさかる炎の向こうにあるはずの階段を心の眼で見てみたが、とても通り抜けられ
そうにない。消防隊も必死に消火活動を行っているが、炎の勢いは増すばかりだ。

　……『跳ぶ』しかないか。
　他人を連れて跳躍するのはあまり自信がないが、そんなことは言っていられない。
葉子が意識を失っているので、少しはやりやすいはずだ。龍一は紅い瞳を閉じ、心を
凝らした。惣一郎の待つ、あの部屋へ。
　龍一と葉子の姿が消えた次の瞬間、炎に包まれた天井が音を立てて崩れ落ちた。


　惣一郎の部屋に現われた龍一は葉子を抱いていた。
「大丈夫か！」
　惣一郎はふたりに駆け寄り、怒鳴るように言う。龍一はすぐに返事もできないほど
息が上がっている。
「叶さん、火傷してるんだ。手当て、しなきゃ」
　荒い息をつきながら、途切れ途切れにそう言った。
「お前はどうなんだ」
「なんともない。ちょっと疲れただけだから」
「待ってろ、下から薬持ってくる」

　惣一郎が部屋を出ようとした、ちょうどその時。
「なにやってんのよあんたたち。夜中にバタバタうるさいわよ」
　いきなりドアが開いた。
　廊下に立っていたのは惣一郎の姉、遙だった。

　少々酔っているらしく、頬がほんのり赤い。ウエーブ気味の茶色の髪が肩にかかって
いる。日本人離れした深い琥珀色の瞳。全体に色素が薄いのは、惣一郎と同じく家系的な
もののようだ。年齢の離れた遥は、外科の研修医であり、嫁いだ上の姉ふたりと違って、
この家に同居している。
　ノーブラにタンクトップと太腿ぎりぎりで切ったカットジーンズというあられもない
格好に、龍一は目のやり場がない。

「遙ねえさん……」
　惣一郎は言葉に詰まった。
　火傷だらけで気を失っている葉子に、瞳が紅いままの龍一。隠す暇もなく全部見られて
しまったのだ。が、遙はほんの少し眉を上げただけだった。その表情は惣一郎が見せるのと
そっくりだ。
　さすが姉弟だな。
　こんな場合ではあるが龍一は感心してしまった。

「ケガ人がいるじゃないの。放っておくつもり？」
　厳しい声。一瞬にして酔いも醒めたらしい。
「すぐに階下（した）へ運びなさい」
　少年ふたりはうなずき、両脇から葉子を抱きかかえて遙の後に続いた。


　階下は惣一郎の祖父が医師をつとめる医院だ。
　病院経営を引退したものの医者をやめる気がない祖父、銀四郎は、八十歳近い現在も診療を
続けており、近所の母親や老人たちの信頼篤いホームドクターとなっている。
　診療室に運び込まれた葉子を診察した遙は、ほっと息をついた。
「煙は吸ってない。火傷も痕が残ったりはしないでしょ。あとはショックで気絶してるだけね」
　遙は葉子を手当てし終わると、細身のメンソール煙草に火をつけた。龍一を見やる。

「で、君は？　火傷はないの？」
　龍一はたったいま気付いたように、自分のからだを見まわした。服は多少焦げているものの、
身体はなんともない。
「大丈夫、みたいです」
　ふうん、と目を細めて、遙は煙をひとすじ吹いた。龍一の目に視線を止め、ひとこと。
「アルビノなのね」
「姉さん！」
　惣一郎があわてた声を出す。
「珍しいからそう言っただけよ。それ以上の意味はないわ。興味はあるわね」

「やっぱり珍しいんですか」
　当の龍一が問い返す。遙は肩をすくめ、講義する口調で応じた。
「あたしも詳しくはないけど、多いとは言えないわね。それに大抵は体色も薄いのよ、
肌の色も髪の毛も。君は目の色素だけが欠損してるみたいだから、変わってるなと思って」
　言いながら、半分も吸ってない煙草を灰皿に揉み消す。
「惣一郎。その女の子、さっきの火事の怪我人なんじゃないの。なんであんたの部屋なんかに
いたのか知らないけど、家の人はこのこと知ってるんでしょうね」
　惣一郎と龍一は「しまった」というように顔を見合わせた。
「言えないよ、こんなこと」
「説明しようがないからな」
　困り果てた様子の弟とその友人を、遙は面白そうに見つめた。
「訳ありなのね。それじゃ、最初からその子はうちに泊まってたことにするってのはどう？
あたしの部屋にいたとでも言っとけばいいんじゃないの」
「それもかなり不自然だと思うよ」
「いきなりうちにいる方が不自然だわよ。あたしがうまく説明したげるから、惣一郎、一緒に
来なさい。君はその子についててやって」
　遙はサクサクとその場を仕切ると、惣一郎を伴って診療室を出ていった。


　診療室に取り残された龍一は、ひとつ息をつくとそばの椅子に腰掛けた。
　ベッドに横たわり眠り続ける葉子。
　さっきの脅えた様子を思い出すと、胸にずきんと痛みが走った。

『いやぁ！　こっちへ来ないで！』

　あのとき。
　彼女は全身で自分を拒絶していた。燃えさかる炎よりも、彼女は龍一の能力を恐怖したのだ。
　自分の能力は他人に受け入れられないと頭では理解していたつもりだったが、クラスメート
からあんな目で見られたことは、彼の胸を重苦しい思いで満たしていた。


「ですから、葉子ちゃんはうちに泊まってて無事だったんですよ」
「そうですかあ」
　ようやく鎮火した叶家の前で。
　半狂乱になっている葉子の両親を見つけると、遙がことの次第を説明した。
　母親はしばらく取り乱していたが、遙の言葉が胸に落ちると泣き崩れた。焼け落ちる二階に
取り残されたはずの娘が無事でいると知って、緊張の糸が途切れたらしい。父親は葉子が無断
外泊していたことが内心腹立たしくはあったのだろうが、娘の安全が確認されて嬉しそうな
様子は隠せない。
「葉子ちゃんは、今晩はうちに泊まらせますね。お父さんとお母さんはどうなさるんですか？」
「警察と消防の事情聴取があるそうです。その後は市内の親類の家にでも」
　葉子の父親は遙に言葉を返すと、いたわるように妻の肩を抱いた。


　惣一郎と遙が診療室に戻ったとき。
　眠り続ける葉子のそばに龍一の姿はなく、デスクの上に置き手紙があった。

　　『叶さんが目を覚ましたとき、俺がそばにいない方がいいと思うので
　　　家に帰ってます。龍一』

　そっけない文面だったが、それを見た惣一郎は声を荒げた。
「あの野郎、また一人で抱え込みやがって」
　その言葉に、遙の眉がぴくりと上がる。
「へえ。あんたにそんな口のきき方ができるとは思わなかったわ。あんたもしっかり男の子
なのねえ」
「俺だって、いつまでもガキじゃないんだから」
　惣一郎は憮然としながらも遙に向き直る。
「叶さんのこと、お願いしていいかな。俺は龍一のとこに行ってくるから」
「はいはい。ガールフレンドよりも友情を選ぶのね。まだまだお子様だって証拠じゃないの」
遙は笑いを含んだ声で言い、ひらひらと手を振ってみせた。
「いいわよ。後のことはあたしにまかせて、友達を助けてやんなさい」
「恩に着るよ、姉貴」
言い捨てて部屋を出る惣一郎の後ろ姿を目で追いながら、遙はくすくす笑った。
「姉貴、だって。まったく無理しちゃって」


　自転車を飛ばし、アパートの金属製の階段を、音を立てないように登る。龍一の部屋から
明かりはもれておらず、ドアには鍵がかかっていなかった。
「明かり、つけてくれよ。顔も見えやしない」
「……ああ」
　龍一は緩慢な動作で立ち上がり、蛍光灯のひもを引っ張った。普段なら、手も使わずに
そうするのに。
　こりゃ、重症だな。
　そう思いながら、惣一郎は龍一のそばに腰を下ろす。

「大丈夫なのか、お前」
「怪我なんかしてないぜ」
　惣一郎は苦笑いを浮かべた。
「まあいいや。今晩、いやもうじき夜が明けるけどさ、泊めてくれないかな。うちに叶がいると
思うと、とても安眠できる気がしないんだ」
　惣一郎は、気の強い叶葉子がとことん苦手なのだ。だが、ひとつ屋根の下にいるだけで眠れない
ほどに嫌っているわけでは、もちろんない。
「布団が一組しかないんだ。雑魚寝でいいならな」
　くす、とちいさく龍一が笑った。
「あいつと同じ家で寝るよりゃマシだね」
　龍一を手伝って夜具をのべながら、惣一郎も笑ってみせた。


　葉子にはその夜の記憶が欠落していた。思い出したくないことがあるための抑圧ではないか、
と遙は言った。一時的なものだから、いずれは思い出すだろう、とも。
　龍一は吹奏楽部の練習にも変わらずに出ていたし、葉子の態度も表面上は変わりなかった。
　まだしばらくは平穏な日々が続くのだろう。
　しかし、その日々にも終わりが近づいていることを龍一は予感していた。

おしまい 　ひとつ戻る