いつか、どこかで……

ノアちゃんイラスト　by ぎんぎつねさま

「大きくなったな。いくつになったんだっけ？」
　隆之が、ピンクの小花模様のサンドレスを着たノアを抱き上げながら言う。ノアは隆之の首筋に
しがみつき、声を立てて笑った。
　海のそばに建てられた隆之の家に、優が子どもたちを連れて訪れているのだった。
　隆之は白いＴシャツにブルージーンズといういつもの格好だ。海で鍛えた精悍な体つきは
あまり変わっていないものの、目尻の笑いじわが深くなり、髪にもちらほらと白いものが
混じっている。それでも、年齢よりはずっと若々しい印象だ。とても四十歳を越しているとは
思えない。

「レイが六歳、ノアが四歳です」
　玲（あきら）は母親らしい落ち着いた笑顔を見せた。
　麻の白い開襟シャツに紺のキュロット、コルク底のサンダルという、清楚で夏らしい格好だ。
長い髪を編んで肩から前にたらしている。
　玲と優の間にはレイが座り、オレンジジュースのグラスに挿したストローを吸っている。
彼は柔らかい生地の水色のパーカーに半ズボン、素足にはスニーカーをはいている。
　レイの髪は、優にそっくりな明るいグリーン。瞳は濃いブルーだ。
　ノアは玲に似て黒髪に黒い瞳。だがサンドレスの裾からのぞいているのは足ではなく、人魚の
尾ひれだ。かわいらしいぷくぷくした手の、指の間には水掻きが見える。ふたりとも海の血を濃く
継いでいるのだった。

「ええと、優がクォーターだから……」
　隆之は天井を見上げながら計算する。退屈したノアが、腕の中から身を乗り出して髪の毛を
引っ張った。
「いててて」
「こらノア、やめなさい」
　優が手をのばしてノアを止めた。
　濃い青のタンクトップにホワイトジーンズ。伸ばした黒髪をひとつにくくり、足元はサンダルだ。
幼い子供たちとは違って、優は人間の姿をとっている。
「いやーん、タカユキおじちゃんとあそぶのー」
　じたばた暴れるノアを隆之から受け取って、優が言った。
「海の血は八分の三なんだけど、どうやら僕に似たみたいですね」
「そうね。優勢遺伝なのかしら」
　父親の膝に乗ったノアは玲の顔を見上げ、しっぽをリズミカルにばたつかせている。おとなしく
座っているレイとは対照的に、ちいさなノアはどうもエネルギーがありあまっているようだ。
「しょうがないなあ。ちょっと泳いでこようか」
「うん！」ノアは嬉しそうに返事をする。
「レイは？　一緒に来るかい」レイは黙って首を振った。
　玲と優は顔を見合わせ、くすっと笑う。
　兄妹なのに、ずいぶんと個性が違うものだよな。隆之も内心でそう思った。

「タカさん、せわしなくて申し訳ないですけど、ちょっと行ってきます」
「ああ、気にしなくていいよ。俺はレイちゃんたちと楽しくお話してるからな」
　隆之は相変わらず、玲のことをレイと呼んでいる。息子の名と紛らわしいのだが、それでも
呼び方を変えようとはしない。

　優がノアを連れて部屋を出たのと入れ替わりに、キッチンから水緒が入ってきた。手に持った
大皿には、切ったスイカが並べてある。
「あら、優は行っちゃったのね」
「タイミング悪かったな。まあ、じきに戻ってくるだろ」
　水緒はテーブルに皿を置くと、隆之のとなりに腰掛けた。
　シンプルな黒のビスチェにミニスカートという飾り気のない服装だが、波打つ髪と輝く瞳は
華やかな印象を与える。
「水緒さん。巽さんが撮った写真、見せてもらいましたよ。すごくきれいでした。発表できない
のがもったいないくらい」
　もちろん、海の中で撮った写真で水緒は人魚の姿なのだから、発表できるわけがないのだ。
「妻を美しく撮るのは夫のつとめだろ。だいたいな、俺が楽しいんだから、それでいいんだよ」
　隆之は照れ隠しのようにぶっきらぼうな口調で言い、水緒はそれを聞いてくすくす笑った。
「モデルがいいから写真がいいんじゃないの？」
「またお前はそういうことを言う」
　仏頂面をする隆之だが、海の中を自由に泳ぐ水緒が何よりも美しいことを彼は知っている。

　隆之がダイビングショップと雑誌の仕事をやめて、カメラマンとして独立してから七年になる。
写真集も何冊か出して、仕事は軌道に乗っているようだった。
「あ、そうそう。アメリカの野田さんから連絡ありました？」
　玲が隆之に訊ねる。
「ああ。やっと入籍する気になったとさ。奴もようやく年貢の納め時だよ。珠貴（たまき）さんも
よく待ったもんだよな」
「挙式は？　しないんですか」
「向こうの教会で式だけ挙げるらしい。こっちに戻ってからお披露目するんで、そいつはちょっと
先になりそうだな」
〈鋼鉄の平常心〉、〈ステンレス・スチール・ハート〉などと呼ばれた惣一郎だが、さすがに
ポーカーフェイスを通すわけにはいかなかったらしい。惣一郎が照れながら電話してきたときの
ことを思い出し、隆之はにやりと笑った。


　水面から差し込む陽光が、珊瑚礁とそこに群れる熱帯魚に鮮やかな色彩を与えている。
　透き通った水は心地よく、優は目を細めて大きく息を吸い込んだ。彼はすでに変身を解き、
海の民の姿に戻っている。
　邪魔なサンドレスを脱ぎ、魚と戯れるノアも見るからに嬉しそうだ。
（おとうさん、どうしておかあさんはいっしょにおよがないの？）
　優は泳ぎを止め、その場にとどまると、愉快そうな表情を浮かべた。ちいさな尾ひれを
ひるがえし、ノアがそばに泳ぎ寄る。優はノアを待って、ゆっくりと泳ぎだした。
（どうしてだと思う？　ノアには分かるかい？）
　ノアは首を横にふる。
（母さんはね、僕らと違って水の中で息ができないんだよ。だからあんまり長いこと潜って
いられないんだ）
（おかあさんはにんげんなのね）
　考え込んだ様子のノアに、優はくすりと笑う。彼女の本当に聞きたいことはこの先だろう。
（おとうさんはにんぎょなんでしょ？　どうしておかあさんとけっこんしたの？）
　すこし先を泳いでいたノアは振り返り、まっすぐに父親を見つめる。
（……さあ。どうしてだろうね）
　どこまでも青い海の中、優は幼い娘を愛情込めて抱き寄せた。

おしまい ひとつ戻る