Ray−黎−

（ちょっと待って！　いま追いつくから、そこにいてくれないか）
　宙港の雑踏の中、心に語りかけてきた者がいた。
　イリリはぴくりと身を震わせて立ち止まる。
（誰？）
（そんなに警戒しなくてもいいよ。僕は君の敵じゃない）
　人ごみを泳ぐように横切ってイリリの前に現われた彼は、人懐っこい笑みを見せた。
「やあ、はじめまして」

　その笑顔は少年のようだが、外見は二十代半ばくらいだろうか。長い黒髪を束ね、
翡翠色の大きな瞳には、いたずらっぽい光が浮かんでいる。背はそう高くなく、からだ
つきも華奢な感じがする。袖をめくり上げたジャケットに、ゆったりしたパンツ。左
手首のブレスレットには青い石がはまっている。

「話す時間はあるかい？」
　アッシュは補給品の買い付けに行っている。待ち合わせの時間までは余裕があった。
「大丈夫だけど……」
　いつまでも通路に立ち止まってはいられないので、ふたりは並んで歩き出す。彼は
イリリのライトグリーンの髪に視線を走らせ、嬉しそうな口調で言った。
「驚いたよ。こんなところで同族に会えるなんて」
「同族って、あなたが？」
　海のにおいはするけれど、どう見ても地上人にしか見えない。戸惑うイリリに、彼は
くすりと笑いかけた。
「場所を変えようか。証拠を見せてやるよ」


　彼の泊まっているホテルのコンパートメント。
　イリリの目の前で彼は〈変身〉して見せた。
　長い黒髪が鮮やかなグリーンに、瞳が深いブルーに変わる。指の間の水掻きも手足の
鱗も、イリリと同じ水に棲む者のそれだった。

「信じてくれたかい」
「……うん」
　イリリはまだあっけに取られた様子だ。
「自己紹介がまだだったな。僕はレイ・ナガミ。黎って呼んでくれ」
「僕はイリリイーリー・イクティス・ナラカ。イリリでいいです」
「そっか。よろしくな、イリリ」

　柔らかい笑顔に、イリリもようやく緊張を解いた。
　黎は椅子を後ろ向きに置いてまたぐように腰掛け、背もたれの上に腕を組んで
あごをあずける。

「で、なんで海の民がこんなとこにいるのかな」
　そう問われて、イリリは故郷の星〈蒼海〉を後にしてアッシュと旅をはじめた
いきさつを話した。黎は興味深そうに、ときおり質問を挟みながら話を聞いてくれた。
「今までずっとその格好で旅してたのか。よくもまあ無事だったもんだな」
「何事もなかったってわけじゃないけど、人間の姿になれないんだもん。仕方ないよ」
「そんなことない。君にもできる」
「ほんと？　黎さん」
　イリリは目を輝かせ、黎は微笑んでうなずいた。

「黎でいいってば。それよりイリリ、君は変身の仕方を知らなかったんだな？」
「そんなことができるなんて、思ってもみなかったよ」
「〈蒼海〉に住んでたって言ったっけ。あそこはほとんど外界と接触してないから
なあ、やり方を知らなくても仕方ないか」
　黎はちょっと眉をしかめた。
「僕の故郷を知ってるの？」
「しばらくいたことがあるんだ。あんまり退屈だから逃げ出しちまったけどね」
　苦笑いして、黎は言葉を続ける。
「さてと。能書きはともかく、やって見せた方が早いよな」
　イリリがうなずくと、黎は人間の姿へ、それからもう一度もとの姿に変わって見せた。

「さ、やってごらん」
　イリリは長手袋をはずし、自信なさそうに言った。
「僕にできるかな」
「できるさ。目を閉じて、落ち着いて。ゆっくり息をするんだ。あせらなくていい、
僕が先導する」
　黎は低い声でうたうように言い、イリリの手を取った。つないだ手から黎の温もりと
心が流れ込んでくる。

（心配するな、できないわけがない。君は僕よりも海の血が濃いんだから）
　イリリは黎の導きにしたがって心を解放してゆく。からだのすみずみまで意識を
はりめぐらし、全身の細胞に変化のパルスを送る。
（いいぞ。そのまま続けるんだ）
　沸き立つような、歓喜にも似た感覚が全身を包んだ。苦痛と快感の入り交じった声を
もらし、目を開ける。壁にかかった姿見の中に、イリリは黒髪の少年の姿を見た。

「できたじゃないか」
「ありがとう、黎」
　黎は微笑み、イリリの頭をぽんと叩く。碧い瞳は優しく暖かだった。弟か、遠い子孫を
見守っているみたいに。
「この姿の方が地上に長くいられるはずだ。ただし、無理はするなよ。水のコントロール
を覚えればもっと活動しやすくなるんだけど、いっぺんにいろんなことを覚えるのは
止めといた方がいいだろう」

　イリリは水掻きのない自分の手を不思議そうにながめていたが、黎の言葉に顔を上げた。
「僕、明日ここを発つんだけど、また会える？」
「既知宇宙も広いからなあ。運がよければまた会えるし、悪ければこれっきりだろうな」
黎は冗談めかしてそう言ったが、イリリがいまにも泣きそうな顔をしたので、あわてて
言葉を継いだ。

「分かったよ。〈ユニオン〉に連絡を入れればいいんだろ？　グレイ船長のＤ船、名前は
〈カローン〉だな。覚えたよ」
「僕が会いたいときは？」
「相棒が来たらここも引き払っちまうしなあ」
　黎はちょっと考え込んでから、こう言った。
「そうだな。〈ヒュぺリオン・ユニバーシティ〉のカズト・ノダに訊けばいい。船の名は
〈タイド・パイパー〉だ。レイに聞いたって言えば教えてくれるから」

　イリリは黎と別れると、待ち合わせ場所に急いだ。
（アッシュ、僕の姿を見たらびっくりするだろうなあ…）
　驚く顔を想像すると、くすくす笑いがこみあげてくる。
　しかし、なによりアッシュを驚かせることになるのが〈ヒュぺリオン・ユニバーシティ〉
と野田和人の名であることなど、イリリは予想もできなかった。



　アルは到着するなり〈タイド・パイパー〉の整備を始めた。
　今も床の整備孔にもぐりこんでいるので姿は見えないが、黎もアルもお互いの姿が肉眼で
捉えられなくても別に問題はない。黎は心が読めるし、アルは遠隔視能力があるからだ。

「ずいぶんと待たせてくれたな。今回はそのおかげで面白いことがあったから許すけど」
　アルに聞こえるように黎が声を張り上げると、孔の底からくぐもった声が返ってくる。
「へえ。珍しいじゃん、おまえが『面白いこと』に出くわすなんて。…ちょっとそこの
五番レンチ取ってくんないかな」
「ん」
　黎は番号順に床に広げてある工具のひとつを無造作に整備孔へ投げ込んだ。それは
見えない手で受け止められたようにアルの頭上に静止し、それから優美なカーブを描いて
左手に飛び込む。

「さんきゅ、黎」
「あのなあアル、見えるんなら最初から自分で取ればいいじゃないか」
「おまえに取ってもらうのがいいんだよ」
　整備孔から這い出すとアルはブルーグレイの目を細め、にっと笑ってみせた。彼の目は
ちょっと吊りあがり気味で、それが子猫のような印象を与える。その目もアジアの血の
混じった顔立ちも、幼く見えると言って本人は気にしているが、きつい性格を容姿が
カバーしているのも確かだろう。
　癖のある黒髪をかきあげようとして手が汚れているのに気付き、かろうじて手を止めた。
　工具をコンテナに片付けながら、目だけ黎に向ける。

「で、面白いことってなんだよ」
　黎はアルの視線を受け止め、
「驚くなよ」
　口の端にちいさく笑いを浮かべて答えた。
「宙港で同族の子供に会った。しかも、その子がＤ船で運び屋をやってるって言うんだ」
「Ｄ船だって？」
　アルは目を見開く。ふう、と息を吐いて言葉を続けた。
「偶然もあったもんだな」
「インフィニティはこういう冗談が大好きなんだよ」
　ふたりは顔を見合わせ、楽しげな笑い声を上げた。

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