翡翠の海、緋の航路

　初めて会ったのは『海竜（レヴァイアサン）亭』、ハンコック爺さんの口利きでのことだった。
「役に立つのは保証する。わしの古い知り合いだ。ただし、素性を詮索してくれるな」
「〈ライオンハート〉に必要なのは船医なんだ。医術の心得があるようには見えないが？」

　麦わら色の髪に深いブルーの目をした、二十歳になるかならないかの若造。
　血を見たことなどなさそうな線の細いそいつは、邪気のない笑顔で応じた。
「ひととおりのことはできます。本職は歌うたいなんですけどね」
　ようやく見つけた『船医』は、信じられない言葉を口にした。

　そもそも、ノーホエア航路に乗船しようなどという酔狂な船医など、いるはずもなかった。
　それどころか、どんな勇猛な（無謀な）船主も船乗りも、その名が疫病ででもあるかのように忌み嫌って
　いたのがノーホエア航路だった。

〈凍れる炎〉、〈緋色の悪魔〉、そして〈血塗れ（ブラッディ）イフリータ〉。
　数々の異名を取った女海賊イフリータ率いる海賊〈緋の鷲（クリムゾン・イーグル）〉が、その海を
　縄張りにしていたのだから。



　数ヶ月前、アルタミラの無敵艦隊が〈鷲〉を追いつめ、船は沈み、イフリータ自身も死んだと噂された。
　ノーホエア産の香辛料と薬草は高額で取り引きされていた。特にある種の熱病に効く薬草は、かの地でしか
　採れないものだったからだ。
　海賊の脅威がなくなったとなれば、好機を逃す手はない。船主たちは、こぞって船を出した。
　事実、数ヶ月間は平穏な航海が続いたのだ。

　ところが。
　ひと月ほど前になって、帰港予定を大幅にすぎても帰らない船が出始めた。波も穏やかなこの時期に、
　遭難したとは考えにくい。
　生き残った船乗りたちの口からイフリータと〈緋の鷲〉の復活が伝えられ、彼女の通り名がいくつか
　増えた。いわく、〈不死身の魔女〉、〈死なずの紅玉（ルビー）〉。

〈ライオンハート〉がノーホエア目指して出航しようとしていたのは、ちょうどそんな嵐の只中だった。
　船主は一攫千金をねらった無謀な貿易商などではなく、アルタミラ国王その人。愛娘が罹った熱病の薬は、
　例のノーホエアでしか採れない貴重な薬草だったのだ。国王と言えど、市中に出回った薬をすべて娘のために
　使うことなどできはしない。
　熱病が治まるのが早いか薬が尽きるのが早いか、時間と海賊とを相手にした分の悪い賭けの切り札が、
〈ライオンハート〉なのだった。

　船にはラミレス船長はじめ熟練の船乗りたちが揃っていたが、イフリータの恐怖には抗いがたく、多額の
　報酬と引き換えであっても規定の人員を揃えることはできなかった。ひとり何役もこなし、下働きの人数も
　最小限にしたが、節約できない最後のひとりが船医だったというわけだ。



「一刻を争うんだ。親父さんの紹介なら信用できるだろう。俺は副長のシグ、おまえの名は？」
　するとそいつは、困ったように言ったのだ。
「この国の言葉では、発音できないんです」
　流暢な話しかたは外国の者とは思えなかったし、発音できない名前が存るなどとは信じられなかったが、
　詮索しないことが条件なら、それも仕方がない。
「わしはジェイドと呼んどるがね」
「ジェイド（翡翠）だって？　なんでまた」
「どうしてなんでしょうね」
　そいつは首を傾げてみせ、ハンコックの親父はあいまいな笑みを浮かべた。
「まあ、いい。ジェイド、今日からおまえは〈ライオンハート〉の一員だ」



　ジェイドはハンコックの親父の言葉どおり、なんでも器用にこなした。風と波を読み、料理番の手伝いをし、
　驚いたことに航海日誌の口述筆記までやってのけた。いったい、どこでどんなふうに知識と技量を身につけたと
　いうのだろう。
「おまえ、これまでどこの船に乗っていたんだ？　よほど良い仕込まれ方をしたんだな」
　例の邪気のない笑顔とともに、やつは答えた。
「船に乗るのは〈ライオンハート〉がはじめてです。仕事は、いろんなところを旅して、いろんなところで
　教わったんですよ」

　定員を下回るこの船で、仕事はいくらでもあるのだが、やつはてきぱきと片付けては暇をひねり出し、
　甲板でリュートを弾き、よく響く声で楽しげに歌うのだった。古い舟歌から異国の民謡、海賊の歌、
　王室楽士の作った曲から下町の流行り歌まで、ありとあらゆる歌を。
　そのうち皆、ジェイドの歌を聴きたさに、やつの仕事の持ち分まで進んで片付け、歌わせたがるようになった。
　イフリータの君臨する〈緋の航路〉と忌み嫌われた海の旅であるにもかかわらず、次第に船の上は和やかな
　雰囲気に包まれていった。



「痛いよぉ！　痛い痛い痛い！」
「わめくな！　この、じっとしてろ、傷に障るぞ！」
　痛みに耐えかね、がくがくと痙攣するちいさな身体を抑えつける。
　無残に裂けた傷口からは、折れてささくれ立った白い骨がのぞいている。
　みるみるうちに広がる血だまり。少年が暴れるのも無理はない。
「ジェイドを呼べ！　下働き（ボーイ）のバックがマストから落ちた！」

「白い布と、縫い針に羊腸糸（ガット）、熱いお湯をできるだけたくさん。それからラム酒を！」
　傷を見るなり、やつは手早く指示を出す。
「なんだって？」
「消毒するんです。早く！」
　やつは暴れるバックの頬を両手で挟み込み、耳元で低く歌いだした。バックは一瞬おおきく目を見開き、
　それから安らいだ表情を浮かべると、目を閉じた。抑えつけられていた手足の力が抜ける。
「まさか、死……」
「いいえ！　眠っただけです。いまのうちに処置をします。副長と、あとひとり残して、ほかの方は
　さがってください」

　それからの『処置』は、血の気の多い船乗りたちの喧嘩沙汰に慣れた俺でさえ、ぞっとするようなもの
　だった。ジェイドは眉ひとつ動かさずに折れた骨の位置を直し、腱と肉とを縫いあわせ、布で傷口を縛った。
「ひとまずはこれで。あとは、彼の体力次第です」
　麦わら色の髪も、白い頬も、血に塗れ果てている。もうひとりの助手はとっくに気を失い、うしろに
　へたりこんでいる。俺もただ、ジェイドの手際を見ていることしかできなかったのだ。

「こいつはまだ十四でな。親が報酬のために船に乗せたんだ。危険は承知とは言え、最初の航海でこんな
　目に遭うなんてなあ」
　バックは穏やかに眠っているように見えたが、その頬は血の気を失っている。
　海賊でも嵐でもなく、ささいな不注意が招いた事故が、少年の人生に幕を引くことになるかも知れなかった。
「もう血は止まりましたが、かなりの出血でしたね……」
　ジェイドはしばし考え込んだ様子だったが、顔をあげると、布を裂くのに使ったナイフを左の手首に
　当てた。

「おい、なにを！」
「皮一枚、切っただけです」
　鮮血のしたたる傷口を、バックの唇に押し当てる。
「傷が早く癒えるおまじないですよ。誰にも言わないでおいてくださいね」
　旅した間に覚えた異国の呪術かなにかなのだろうか。異様な光景ではあったが、どういうわけか悪いもの
　とは思えなかった。

「若造と思って見くびっていたよ。たいした度胸だ」
　手桶の雨水でからだを洗い、着替えをするジェイドを残し、船室を後にする。なにか違和感を覚えた
　のだが、しばらくそれがなにか、思い出すことはできなかった。
　船橋（ブリッジ）に戻ってきて、ようやくそれに気付いた。新しいシャツに腕を通すジェイドの手首には、
　傷が見えなかったのだ。
　先程切ったばかりの、あの傷が。



　先を急ぐ旅だった。普段は通らない近道（ショートカット）を航海士が提案し、船長もそれを承諾した。
　見張り台に上っていたジェイドは、風に髪を吹き乱されるまま海を眺めていたが、身軽にマストから
　滑り降りてくると、船長に進言した。

「このまま進んではいけません。大きな暗礁があるんです」
「海図にはなにもないが？」
　白い眉の下に鋭い眼を光らせるラミレス船長にも臆せず、ジェイドは海図を指差した。
「ここと、ここです。深さは二十尋から三十尋。これまで船がぶつかっていないだけの話です。喫水の
　浅い船なら通れるでしょう。だけど、こんなに大きな船はひとたまりもありません」
「どうやって知ったんだね？　ここでは船が沈んだことはないのだろう？」
「そこに住んでたんですよ」
　ジェイドはくすりと笑ってみせた。

　船はゆっくりと進路を変えてゆく。
　甲板から海を見渡す。進むはずだったすぐ向こうの海が薄黒く見えることに気づいた。
　やつの言う暗礁が、外洋特有の藍色の水の下に、その不気味な姿をのぞかせている。
　見張り台へと戻っていくジェイドの姿を見つめたまま、俺は立ち尽くしていた。



　ハンコックの親父は詮索するなと言っていたが、ジェイドを知れば知るほど疑問が増えてゆく。
「なあジェイド。危険な航路に、どうしてわざわざ志願したんだ？　それくらいなら聞いても構わない
　だろう」
　深夜の操舵室。
　ジェイドは不寝番を務める俺の足元に座り込んでいる。
　床に置いたランプに灯をともし、膝に載せた板のうえで海図に書き込みを入れている。海の深さや海流、
　暗礁の位置など、安全な航海には欠かせない、だがなかなか集めることは難しい情報だ。
　ラミレス船長に命令され、例によって「どうして知っているのか詮索しない」という条件で引き受けた
　仕事だった。

「バックみたいに破格の報酬めあてってわけか、それとも」
「笑わないって誓うなら、教えてあげます」
「ああ、誓うよ」
　ジェイドは海図に目を落とし、
「……じつは、ノーホエア行きの船に乗っていれば、彼女に会えると思ったんです。もう一度、ひとめだけ
　でもいいから、会いたいんです」
　頬を染め、ちいさな声で言った。
「彼女って」
「イフリータ」
「なんだと！」

　血相を変える俺を、やつはあわてて制した。
「こんな夜中に、声が大きいですよ、シグ副長。お願いですから、落ち着いてください」
「相手が悪すぎだ」
「びっくりされても仕方ないですよねえ」
　ふう、とため息をついて、やつは話しだした。

「七つ前の大潮の晩でした。ノーホエア近くの海で、彼女を見たんです」
　アルタミラの無敵艦隊が〈緋の鷲〉討伐に乗り出したときのことだ。なんでまた、そんな場所に
　居合わせたのだろうとは思ったが、口をはさまず話すにまかせる。
「沈んでゆく〈緋の鷲〉の甲板で見た彼女の姿が、忘れられないんです。炎のような赤毛、朱に染まった
　革の胸当て、上気した頬。サーベルから腕までしたたる血潮。そして、紅一色のなかの、あの瞳。
　南海の礁湖（ラグーン）みたいな、深い綺麗な緑色……」
　ジェイドは恋を語る口調で、うっとりと言った。

「どうかしてるんじゃないのか、おまえ。あの女海賊をそんな風に思うなんて」
「イフリータは、わたしとまるで反対の生き方をしています。内なる声の命じるままに、奪い、殺し、
　燃やし尽くす。彼女は、わたしに欠けているものすべてを持っていて、長いこと押し殺してきた感情を、
　あのとき目覚めさせてくれたんです」
「長いこと？　おまえはそんな言い方をするほど年寄りなのか。バックと五つ六つしか違わないような
　若造のくせに」
　やつは答えず、ただ微笑んだ。

「彼女が海賊かどうかなんて、わたしにはどうでも良かった。だからあの時、傷だらけの彼女を助けたんですよ。
　アルタミラ艦隊も彼女を死んだと思ってたみたいですし、あのままずっと一緒に暮らせたら良かったんですけど。
　傷が癒えた早々、元の稼業に逆戻りしてしまうんですから、なんてつれない女性（ひと）なんでしょう」
　つれないとか、そういう問題ではないような気がするが。

「で、また会えたら、どうするんだ？　海賊をやめろとでも説得するつもりか」
「それは、彼女に死ねと言うのと同じことですよ。静かに暮らすのが無理ならば、わたしをそばに置いて、
　ともに旅してくださいと言うだけのことです」
「本気で言っているのか、ジェイド。〈緋の鷲〉のマストに吊るされるか、サーベルの錆にされちまうのが
　オチだろう。考え直せ」
「彼女がわたしを殺すなら。それも本望です」

　ジェイドは確信に満ちた瞳で、俺を見上げた。
　こいつはやっぱり、どうかしているのかも知れない。
　命を懸けるほどの恋か。
　そんなものが本当にこの世にあるのか、そして、成就することなどあるのだろうか……

「おまえってやつは、とんでもない大馬鹿者だな」
「たぶん、その通りでしょうね」
　ジェイドはおかしそうに、くすくす笑った。
　俺にはそれが、やつと出会ってから初めての、心底からの笑いであるように思えた。



　ノーホエアへの道程で〈ライオンハート〉を見舞った次の危機は、季節外れの嵐だった。
　荒れ狂う波の激しさには、熟練の航海士でさえも舵輪にしがみついているのがやっと。帆をすべて
　降ろして風を受け流しても、マストにかかる負荷は耐え難く、早晩折れてしまうのが目に見えていた。
　嵐が朝まで続いたら、イフリータの〈鷲〉に出会わずとも、航海は終わりを告げることになるだろう。

　上部甲板（アッパー・デッキ）に向かう廊下で、蒼白な顔をしたジェイドに出くわした。
「何をやってるんだ？　おまえの持ち場はここではないだろう」
「シグ副長、行かせてください。わたしなら嵐を止められます」
「正気か、おまえ」
「ええ。嵐鎮めの歌をうたうんです。誰も海では死なせやしません。わたしが船に乗っている限りは」

　とんだ戯言だとは思ったが、ジェイドを止めることはできなかった。船乗りの本能が、やつの言う通りに
　しろと告げている。
「分かった、行くがいい。だが、おまえが生け贄になって嵐を鎮めるつもりだとしても、副長としては
　見届ける義務があると思うが」
「死んだりなんかしませんよ。ですが、あなたを守る余裕もないと思います」
「自分の身くらい、自分で守れるさ」


　嵐の中に踏み出すジェイド。
　俺は船倉の出口にしがみつき、ようやっとマストまで這い寄った。濡れて滑る甲板、真横から吹きつける
　風雨。立って歩くことなど、とてもできやしない。
　なのに。
　この揺れのなか、やつは平然と船首まで歩いて行く。吹きつける雨も、飛沫を上げる波も、やつの周りで
　はじけるようによけてゆく。
　すべての水が、ジェイドにしたがっている！

　そしてジェイドは、嵐に向かって吠えた。
『歌声』は、嵐の音がなかったとしても、俺の、いや人の耳には聞こえない代物だった。だが、大気を揺るがし、
　嵐につかみかかるその脈動が、肌で感じられる。

　閃く雷光のなか、俺はやつの名の由来を知った。
　たてがみのように、風にわきたつ長い髪。
　それはいつもの麦わら色などではなく、見事な翡翠色（ジェイド・グリーン）だったのだ。
　袖の破れ目からのぞき、稲妻にきらめく蒼銀の鱗。
　やつは、やつの正体は……
　深淵に棲む者。海の妖魔。不老不死の海の民。
　海図にもない暗礁の位置を言い当て、歌でひとを眠らせたジェイド。医術に長けているのも、
　ハンコック爺さんの古い知り合いだと言うのも、見かけ通りの年齢ではなかったからだ。

　揺れる船首で嵐に向かい、人魚は吠え続ける。
　暗雲を、疾風を、波頭をその歌でねじ伏せ、力を失わせ、眠らせるために。

　どれだけ時間がたったことだろう。
　やがて、ほんのわずかずつではあるが、風が弱まり始めた。
　波のうねりも、心持ち低くなる。
　聞こえはしなくても、ひときわ高く、やつが吠えるのが分かった。
　嵐が最後の抵抗をあきらめ、しぶしぶその勢いを減じる。
　不気味なマストの軋みが、次第にちいさくなってゆく。

　乗り切れる、これでもう大丈夫だ！
　確信するのと、ジェイドがくずおれるのは同時だった。



「みず、を」
　寝棚に横たわったジェイドが、かすかにつぶやいた。水差しを傾け、こぼさぬように器にすこしだけ
　移すと、唇を湿してやる。
「もっと、たくさんください……」
　大儀そうに半身を起こし、器を受け取る。その指の間を薄い水掻きが覆っている。水差しにあるだけ
　注いでやると、のどを鳴らし、美味そうに飲み干した。霞むような青い目が、いつもの光を取り戻す。

「副長室だよ。狭いが、誰も勝手には入ってこないから安心だ。あのまま船首に放っておくわけにも
　いかなかったからな」
　ジェイドは自分の身を見下ろし、息をつく。
「ああ、あなたには、すっかり見られてしまったんですねえ」
「すこし休むんだ。海の中じゃなくて辛いだろうが」
「……ありがとうございます、シグ副長」
「二人きりのときは敬語はいい。おまえさんの方が、ずっと年上なんだろうに」
　その言葉に、やつは弱々しく苦笑する。
「人間って、おかしいですよね。そうやっていつも、歳を取ってるから偉いだなんて」
「歳なんかじゃないさ。おまえさんを尊敬してるから言うんだ」



　ノーホエアに着いたら、金品と引き換えに薬草を積み込む。ということは、海賊に襲われるなら往路
　しかないということになる。薬草や香辛料にも価値はあるが、さばくルートを持たなければ奪っても
　意味はない。あと数日だけ航海が続けば、〈ライオンハート〉が襲われる危険はなくなるのだ。

「無事なのが残念か？」
「じつは、すこしだけ」
「どうするんだ、会えなかったら」
「船長と皆さんさえよければ、もうしばらくこの船に乗せていただけたらと思っているんですけど」
　言葉を切り、声を落とした。
「いくらあなたが黙っていてくれても、嵐の一件で、みんながわたしのことを気味悪がっているのが
　分かるんです。アルタミラに帰ったら、また、別の船を探します」
「ジェイド……」
「副長、あなたも動じないかたですね。わたしの正体を知っても変わらずに接してくれたのは、
　ハンコックさんと彼女のほかには、あなただけでしたよ」



　ジェイドにとっては幸運だったと言うべきか。
　ノーホエアに着く直前、水平線に陸の影が見えようかと言うときに、イフリータはやってきた。
　死と硝煙を引き連れて。

　こちらが海賊旗をみとめたかどうかのうちに、いきなり向こうは撃ってきた。足の早さを頼みに護衛
　すら連れていない貿易船に、対抗手段があるわけでもない。ただし、いつものやり口から、砲撃は威嚇に
　とどまることは分かっている。
　こちらを沈めてしまっては金品を奪えない。接舷し、乗り込んで、殺すことを楽しむのが彼女の流儀なのだ。

　細身の身体にサーベルを帯び、赤毛を振り乱して闘う、女海賊イフリータ。
　ジェイドの見たというその姿をこの目で見るとき、それは俺たち全員と、国王の娘の人生が終焉を迎えるときだ。

〈緋の鷲〉が次第に近づいてくる。
「船長！　白旗を掲げてください！　砲撃はわざと外してはいますけど、ひとつでも当たったら」
　ジェイドの言葉を容れ、トップマストに白い布が掲げられたが、砲撃は止まない。
　直撃こそないものの、逃がす意志がないことは十二分に伝わってくる。

　硝煙立ち込め、舷側すれすれに着弾する飛沫がかかる中、ジェイドは甲板に立った。

「イフリータ！　わたしだ！」
　砲撃のなか、よく通るその声が〈鷲〉の艦橋（ブリッジ）に届いた瞬間。
　静寂が訪れた。
　激しかった砲声が、やんでいた。
　船長以下、甲板にいる全員が遠巻きに見守るなか。
　ジェイドは晴れ晴れとした笑みを浮かべ、
「さようなら、〈ライオンハート〉の皆さん。……ありがとう、シグ副長」
　言うなり、身軽く船縁を飛び越えた。



　女海賊イフリータ。
　アルタミラの艦隊が〈緋の鷲〉を掃討することに成功する八年後まで、その残虐さと勇猛さは衰える
　ことを知らなかった。彼女が見逃したのは生涯でただ一隻、アルタミラ船籍の貿易船〈ライオンハート〉
　だけだった。
　艦隊に囲まれ、沈みゆく〈鷲〉の船上には、彼女に寄り添う恋人の姿があったと言う。

　海賊の時代が遠く過ぎ去ったいまも、船乗りたちの噂に聞く。
　ときにイフリータの航路には、海の底から、彼女の笑い声がこだますると言う……

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