| カリン |
真紅のドゥカティが〈海技研〉の駐車場に入ってきた。
背の高いライダーはサイドスタンドを立て、エンジンを切った。バイクから降りると、車体と同色のフルフェイスヘルメットを脱ぐ。白いＴシャツに包まれた筋肉質の体、下はジーンズにライディングブーツ。皮のグローブをはずしながら、タンデムシートに乗ったままの少年に声をかける。
「どうした優、気分でも悪いのか」
隆之は、日に焼けた浅黒い顔に心配げな表情を浮かべた。
「ううん、大丈夫」
優はフェイスシールドを上げるとひとつ息を吐き、体に比べてやや大きすぎるヘルメットを「よいしょ」という感じで脱いだ。隆之にヘルメットを手渡し、タンデムシートから飛び降りる。ぶるんと頭を振ると、一房だけ他より長い髪が揺れ、耳元でピアスが光った。
着ているのは大きめのＴシャツにブルージーンズ、素足にスニーカー。いつもは短くカットしたジーンズだが、今日はバイク用にと丈の長いのをはいている。
「バイクってすごいね。酔っ払ったイルカみたい」
二人分のヘルメットをシート横のフックに固定しながら、隆之は笑った。
「おまえ、酔ったイルカになんて乗ったことがあるのか」
「僕たち、イルカに乗ったりなんかしないよ。一緒に泳ぐけど」
優は肩をすくめた。
「ジグザグに走るとこが、たぶんあんな感じかなって。面白かったよ」
「急ぎはしたけど、これでも安全運転したんだぞ」
「そうかなあ。タカさんの運転は海でも陸でも荒っぽいもん」
「言ったな、こいつ」
軽口を叩き、笑い合いながら二人は建物に足を踏み入れた。
「よ。元気そうだな、惣」
「こんにちは！ 野田さん」
研究室の入り口で、デスクに向かっている惣一郎に声をかける。薄いブルーのワイシャツにきちんとネクタイを締め、白衣を羽織った惣一郎は、席を立って二人を出迎えた。
「こんにちは、巽君、優君。早かったですね」
「すごかったんだよ、タカさんの運転」
隆之はいかにも心外だと言う顔をした。
「おまえのために急いだんだぞ、優」
「あんな面白いこと初めてだったよ。ありがと、タカさん」
惣一郎は二人のやり取りにくすりと笑った。
「ここの方が市ヶ谷よりは近いですしね。バイクは身近な移動手段としては一番早いですから、優君のためには最良でしょう。あまり長いこと風にさらされたらまずいでしょうけど」
「平気だよ、これぐらい」
そう答える優の腕を取り、なにごともないことを確認しながら惣一郎は言った。
「君たちはイルカと比べると、ずいぶん適応性が高いですよね。水棲哺乳類ならしばらく水から離れただけで皮膚が火傷したみたいになってしまうのに」
優は惣一郎を見上げ、いたずらっぽく笑う。
「僕は人間でもあるんだよ。四分の一だけど」
「そうでしたね」
惣一郎は柔らかに微笑むとノートパソコンを小脇に抱えた。
「それじゃ、さっそくプールに行きますか。人ばらいしてありますから」
〈海技研〉の裏手、広くて深いプールには、数頭のイルカが泳いでいる。
優は、ぱっと明るい笑顔を見せた。故郷の海にいた頃から彼はイルカが大好きなのだ。イルカたちも優の存在を感知してか、ジャンプを繰り返したり、水面をしっぽで叩いたりしている。
だが一頭だけ、仲間たちから離れ、プールの底にじっとしている個体がいる。
「……あの子でしょ、野田さん」
「そう。彼女の名はカリン。と、僕らは呼んでますけどね」
惣一郎は水中の音波を収集するマイクと録音装置に端末をつなぐ。録音レベルをチェックし、記録用のディスクを準備した。
「もう潜っていい？」
「ええ、お願いします」
優は服を脱ぐと、プールの端から水に滑り込んだ。水面を透かしてドルフィンキックで泳いでゆくのが見える。緑色に変化した髪の色で、彼が本来の姿に戻ったのが分かった。
人型をしているにも関わらず、優の泳ぐ速度はイルカに匹敵する。ほどなくプールを横切り、カリンのそばに近づいた。
ここしばらく何ものにも関心を見せなかったカリンが、ゆらりと尾ひれを動かし、ものうげに水底を離れる。優は少し距離を取りながら、彼女の周りをゆっくりと泳いでいる。
「反応が出てますよ。パターンはイルカ同士の会話に似てますね」
惣一郎はモニターをのぞき込む。
「ほんとに優のやつ、イルカと話せるのか」
「それを確認したくて、わざわざ来てもらったんですよ」
「テレパシーって手もあるんだし、『音』で意思疎通してるとは限らないだろ」
「かも知れませんけどね、記録できるとこは記録しますよ。後で解析できるようにね」
やがて、カリンが水面に頭を出した。呼吸孔から勢いよく潮を吹き上げるカリンのそばに、優も顔を出す。彼らはイルカと違って水の中で呼吸できる。息継ぎをする必要はないので、おそらくはカリンにつきあって浮上したのだろう。
カリンは再びプールの底に沈み、優は潜ったままこちらに泳いできた。惣一郎の目の前で水面から顔を出す。
「どうしました」
優は水を吐き出し、息を吸い込む。呼吸器が空気になじむまで、ほんの少し苦しそうな表情を見せる。それから、
「彼女、子供を亡くしたんだね」
小さな声で言うと、眉をくもらせた。
「カリンがそう言ったんですか」
「うん。仲間もいるし大丈夫だとは思うけど、気をつけてあげてね」
「ええ」
それきり黙り込んだ惣一郎を見上げ、優は遠慮がちに訊ねた。
「あのね野田さん、ほかのイルカが呼んでるんだけど……」
惣一郎は考えから醒め、微笑んだ。
「ああ、すみません。もう記録は採れましたから、遊んできてもいいですよ」
「ありがと！」
優は嬉しそうに笑い、それこそイルカのように一直線に群れに向かって泳いでいった。
惣一郎はちいさく息を吐き、記録装置を片づけ始める。
「なんだよ、ため息なんかついて」
「カリンが子供を亡くしたってことは、ここのスタッフ以外知らないはずなんです」
「あのイルカに聞いたんだろ？ そう言ってたじゃないか」
「そうとしか考えられませんね。僕の心は読めないはずなんですから」
「優は嘘をつかないぜ」
「それは承知してます。水棲哺乳類は人間と脳の構造からして違うんです。イルカと意思疎通することは、人類にとっては今のところ、夢でしかないんですよ。なのに優くんは簡単にやってのけてしまうんですからねえ」
隆之は苦笑し、惣一郎の肩を叩いた。機器の撤収を手伝いながら言う。
「優に驚かされるのなんて、今に始まったことじゃないと思うがな」
「ま、そうですけど」
惣一郎も肩をすくめてみせた。
「まったく、このことを公にできないのが残念ではありますね」
ふたりの視線の先で一頭のイルカが高くジャンプし、飛沫が陽光にきらめいた。
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