| 海辺の三角形（トライアングル） |
梅雨明け宣言も出て、本格的に海水浴シーズンに突入した、ある暑い日。 「那神（ながみ）くん。ちょっと待って」 吉川礼子（よしかわれいこ）が、夏期講座を終えて帰ろうとした優を呼び止めた。 優はなんだか、この少女が苦手だ。なのに向こうは同じクラスになったその日から、 何かと優にちょっかいをかけてくる。 礼子は思いっきりの笑顔を作り、小首をかしげながら優にたずねた。 「今週の日曜、空いてる？」 こんなふうにたずねられたら、なにかの誘いに決まっている。 口実をつけてでも断ればいいのだが、 「うん。別に予定はないよ」 つい正直に答えてしまった。 優の答えに、礼子はあからさまに嬉しそうな声をあげる。 「そう！ じゃ、一緒に海へ行かない？」 「え……」 しまったと思ったが、暇だと答えたのだから、もう遅い。 「場所は伊豆なんだ。うちの別荘があるから夜は泊まれるし、花火大会もあるし、 楽しいわよ」 優は必死で言い訳を考える。 「ごめん！ じつは僕、泳げないんだ。だから海はパスさせて」 「本当？ 那神くんがカナヅチだなんて、信じらんない」 礼子は、見るからに不満そうだ。 「ほんとにごめんね。それじゃ」 「待ってよ、那神くん！」 礼子の声を背中に、カバンを肩に引っかけると、そそくさと教室を出た。 教科書とルーズリーフを広げ、英文和訳をしている優のそばで。 「言うに事欠いて『泳げない』だと？ 傑作だね！」 櫂が涙をこぼさんばかりに笑い転げている。 「人前では泳げない、って言った方が良かったんじゃないのか？」 あまり櫂が笑うので、優は耳まで真っ赤になった。 「うまい言訳が思い付かなかったんだよ。櫂兄さんってば、そんなに笑わなくたって いいじゃない」 大きく息を吐き、深刻そうな声で優は言葉を継いだ。 「吉川さん、なんで僕なんか誘うのかな……」 それを聞いて、また櫂が吹き出す。 「そりゃ、お前のことが気になって仕方ないんだろ？ 心を読んでみろよ」 「読まなくたって分かるよ。そうじゃなくて、なんで僕が、ってこと」 「バカだな優、好きになるのに理由なんかあるか？」 優は上目づかいに櫂を見る。 櫂は思いっきりにやにやしている。弟のように思っている優の色恋沙汰が 面白くてならないらしい。自分はなんだか、年中失恋しているようなことを 言っているのだったが。 結局、優は礼子の誘いを断りきれなかった。彼女の熱心さに負けたのと、 つきなれていない嘘を見破られてしまったからだ。 「あたしも行く！」 それを聞くと、即座に玲（あきら）は宣言した。 文句など言わせないという口調で。 「僕はその方が嬉しいけど、吉川さんはいやがるんじゃないの？」 言わずもがなのことを言われて、玲はぷっとふくれて見せる。 「だから、余計によ」 「人間関係って…… 難しいね」 眉間にしわを寄せて考え込む様子の優に、玲はくすりと笑った。 「それより、海に行ったりして、大丈夫なの？ 泊りだっていうし」 「まあ、何とかなると思うけど」 自信のなさそうな答えに、玲はため息を吐いた。 「やっぱ、ついてかなくちゃ心配だわ」 「すっごぉい！ 那神くん」 礼子は目を輝かせた。 「どうして泳げないなんて言ったの？ こんなに上手なのに」 「それは、その……」 優は下を向き、意味不明なことをつぶやく。 「いいじゃない、そんなこと」 困り果てた優に、玲が助け船を出す。 「沖田さん。あたしが那神くんと話してるんだけど？」 「優はあなたの所有物じゃないでしょ！」 「なぁんですってえ！」 「やめてよ、ふたりとも」 優の制止にも関わらず、礼子と玲の間には見えない火花が飛び散った。優は 途方に暮れて、にらみ合うふたりからそぉっと後じさる。 水音。 「優！」 「那神くん！」 ふたりが振り向く。もう、そこには優の姿はなかった。 深夜。 優は、海岸へ向かった。 水に入らずに眠ることもできないわけではなかったが、意識を失うと、海の姿に 戻ってしまう方が問題なのだ。というわけで優は、同室の芳樹と健太が寝付くのを 待って、部屋を抜け出したのだった。 月が明るい。 岩場の影でＴシャツとジーンズを脱ぐ。ちょっと考えて、下着も脱いだ。どうせ 誰かが見ているわけでもない。 穏やかにうねる海面に、大きな満月が映っている。 波打ち際に歩を進め、波が腰のあたりまで来たところで身を沈めた。 ナイトダイビングをしている者もいないだろうとは思ったが、気をつけるに越した ことはない。沖合いに出ると、ダイバーにもそう簡単には潜れない深みまで潜った。 外洋ならば海面近くで眠ってもいいが、陸に近い場所ではそうもいかないからだ。 ようやく安全そうな岩陰を見つけ、身を横たえる。 海水は、冷たく心地よく全身を包んでくれる。懐かしい故郷に帰ってきたことで 昼間の緊張もようやくほぐれ、優は夢も見ずにぐっすりと眠った。 夜明け前。 凪と呼ばれる時間、波が静かになる頃に、優は目を覚ました。たいていの魚が活動を 始め、釣り人が好む時刻でもある。まだ暗い海の中を、陸を目指して泳ぎだす。優は 自分の感覚だけを頼りに、もとの海岸に向かうことができた。 誰にも見とがめられずに海岸に泳ぎ着くと、体を乾かして服を着る。ちょうど、太陽が 昇るところだった。 壮麗な朝日のショーを、優はひとり、海辺の岩に腰掛けて眺めた。 「おはよう、那神くん」 考えにふけり、外界に注意を払っていなかった優は、突然声をかけられて驚いた。 「吉川さん、おはよう。こんな早くにどうしたの？」 彼女の心をのぞき、海から上がったところを見られていないのを確認してほっとする。 髪はまだ湿っているが、申し開きはできるだろう。 「那神くんこそ」 礼子は優のそばにやってくると、だまって隣に腰かけた。相手の意志にかまわずに 行動するところが、彼女らしいとは言える。 「日の出を見てたの？」 「うん。いつ見ても、こんな綺麗なものはないって思うよ」 なんの気負いもない素直な言葉に、礼子はくすりと笑った。 「岩場に座ってる那神くんも、綺麗だったわ。まるで人魚みたい」 一瞬どきりとはしたが、彼女に他意はなさそうだ。礼子は優の動揺には気づかず、 言葉を継ぐ。 「コペンハーゲンに人魚姫の像があるじゃない。ちょうどあんな感じだったわ」 「ほめられたと思ってもいいのかな」 「そう言ったつもりだけど」 「……それはどうも」 彼女が何を言おうとしているのか察した優は、唐突に立ち上がった。玲には鈍いと 言われたが、この雰囲気なら何が起こるのか、心を読まなくともちょっと考えれば 分かる。 「ごめん。朝食前にシャワー浴びときたいから、先に帰るよ」 ビーチサンダルを片手でつかみ、岩場を駆け下りると、優は背を向けて走り去った。 礼子はあっけにとられたように優の後ろ姿を見送った。 「那神くんのバカ……！」 小石を拾い、海に投げ込むと、それはちいさな音を立てて波に消える。 礼子の悩みになどに関わりなく、海はただしずかに空を映していた。
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