ときめきは空の海で

　（まいったなあ。昨日は放課後まで、なんとか平気だったんだけどな）
　人間の姿を保つことがつらくなってきた僕は、気分が悪いと言って午後の授業を抜け出したのだった。タカさん（陸での僕の保護者であり、大家でもある）の言うとおり、一日くらい休んだ方が良かったかも知れない。
　海までは遠いし、水のある場所も手近にはない。仕方がないので、とにかく人の気配のない場所を探して、屋上に出た。

　屋上を初夏の風が吹きぬけてゆく。
　グラウンド側から見えないように、給水塔室の影に腰を下ろす。地面に座っていると少しは楽だけど、体中が重力に痛め付けられて、ぎしぎし言ってるみたいだ。だいぶ慣れたとは言え、海で育った僕には、二本の足で歩いて移動することが、いや、自分の体重を支えて立っていることすら負担なのだ。

　校章入りの臙脂のネクタイをはずし、糊の効いた半袖シャツの襟元をゆるめる。
　それから建物の壁に体をあずけ、力を抜いた。
　もう、限界だ。全身を苦痛の波が駆け抜ける。
　足元から風が吹き上がったような感覚。

　「……ふう」
　逆立った前髪が目の前に落ちてきたときには、もう緑色に変わっていた。指の間には水掻きが戻っている。陽に透けるそれを見つめ、大きく息をついた。
　もう一度、変身しなくちゃ。すこし休めば、なんとか気力も戻るだろう。

　その時。
　なにかが心に触れた。人の気配だ、階段をあがってくる。
　だめだ。
　いま来られたら！

　「那神（ながみ）くん！　那神くん、いるんでしょ？」
　屋上のドアを開ける。見えるところには姿がない。
　給水塔の向こうかな。給水タンクを収めた小屋の方へ足を向けたとき。
　ふわっと、強く潮の香りがしたような気がした。
　気のせいよね。町並みの向こうには海が見えるけど、こんなところまで海のにおいが届くなんて。

　給水塔室の角を曲がる。いたいた。
　「保健室にもいないし、探しちゃった。授業をさぼるならここだと思ったんだけど、当たりだね」
　床にべったり座り込んだ那神くんが顔を上げる。なんて顔色！
　「沖田さん……」
　ちいさな声であたしを呼ぶ。なんだか、しゃべるだけでも辛そうな感じ。
　「なに？」
　「あのね……　なにか甘いもの持ってない？」
　「え？」
　こんなときに何を。
　「低血糖症なんだ。動けなくなっちゃって」
　あたしは了解した。部室のロッカーにお菓子が隠してある。
　「ちょっと待ってて。すぐ持ってくる」

　彼女がドアを開け、僕のところに来る前に、なんとか変身することができた。
　でも、そのせいで体中のエネルギーを使い切ってしまったみたいだ。頭がひどく痛いし、気分が悪い。宿酔（ふつかよい）っていうのは、たぶんこんな感じだろう。
　急激に血糖値が下がったせいだ。強い能力を使うと、脳が多量の糖を必要とするからだ。
　もう、こんな無理はしたくないな。
　頭をしめつけるような頭痛をこらえながら、心底そう思った。

　階段を上ってきたのは、同じクラスの沖田さんだった。
　沖田玲（あきら）さん、仲の良い友達には名前を音読みにして「レイちゃん」と呼ばれている。
　半袖ブラウスの襟には、ふわりとした臙脂のリボン。
　紺を基調にしたチェックの車ひだのスカート、黒に近い濃紺のハイソックス。
　陽にやけた細い手足、彼女の動きと一緒に跳ね回るポニーテイル。
　彼女には、風と太陽がよく似合う。

　僕が無理を押してまで高校に通っている理由、それが彼女なのだった。

　「お待たせ！」
　沖田さんが息をはずませ、ポニーテイルを揺らして走ってくる。本当に急いでくれたんだ。
　「ありがとう」
　彼女が持って来てくれたキャンディを口に含む。
　「大丈夫？」
　「なんとかね。少し休めば動けるようになるよ」
　口をもごもごしながら答えると、安心したようににっこり笑う。

　喜びとともに訪れる、かすかな胸の痛み。
　僕が人間じゃないってことを知ったら、こんな笑顔を向けてくれることもないだろうから。

　沖田さんもキャンディを口に放り込むと、隣に腰を下ろした。
　「えへへ。あたしもさぼっちゃった」
　「いいの？　授業」
　「気にしないで。あたし保健委員だし、カッツェさんの授業って嫌いだから、ちょうど良かったんだ」
　「カッツェさんって？」
　「世界史の須藤先生。ちょっと厳しいんだよね。それに、歴史ってあんまり好きじゃなくって」
　「人間の歴史って、面白いと思うけど……」
　「那神くんって、変わってるね。あたし、勉強を面白いなんて思ったことないよ」
　「知らないことを知るのって、楽しくない？」
　「そりゃそうだけど。どっちかって言うと受験対策だもん」

　お菓子を食べながら話しているうちに、少しずつ気分が良くなってきた。甘いものが効いたようで、頭痛もおさまってきた。
　積極的に心を読もうなんて思わないけど、沖田さんの元気な精神が影響を与えてるのかも知れない。陸の人間はびっくりするほどバイタリティにあふれてるけど、彼女は特別に元気だ。

　彼女のそばにいて、話をして、笑い合える。
　いくらかの苦痛と引き換えの、しあわせな時間。

　彼女と海で暮らせたら、どんなにいいだろう。
　つかの間、夢想がこころをよぎる。
　ほどいた髪をなびかせ、ほの暗い海のなかで輝くような笑顔を見せる彼女。
　幻影のなかの彼女は、制服姿のままだった。
　ふわり、水に遊ぶ臙脂のリボン。ブラウスの袖も襟も、ひらひらと揺れる。
　海面から差し込む光の箭（や）とたわむれるように、スカートの裾をひらめかせ、水を蹴って深みに向かう……

　やがて、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
　「僕は早退するけど、沖田さんは次の授業に出たほうがいいよ」
　「ひとりで大丈夫なの？」
　「うん」
　そう言ったものの、立ち上がろうとしたら足がふらついた。
　「危なっかしいなあ。ついて行ってあげるよ」
　「……ありがと」
　素直に好意に甘えることにした。肩を借りると、彼女の方が少し背が高い。

　「沖田さん。ありがたいんだけど、後でみんなに何か言われたりしない？」
　「平気平気。そんなの気にしないでいいよ」
　だけど、転入初日にしつこく話しかけてきた吉川さんあたりが「きーっ！」とか騒ぎそうで、ちょっと怖い。
　「那神くんとだったら……　噂になった方が、いいな」
　彼女が言った。
　いや、違う。彼女の心だ。触れた手を通して彼女の心が伝わってくるんだ。
　内心を顔に出しもせず、ふらつく僕を支えてくれてる。

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