るりのひとみ

ぎんぎつねさん作イラスト(Thanks!) 　その１(64KB)　／ 　その２(45KB)　

　ちょっとだけ昔のお話です。
　岬のおんぼろ診療所には、お医者さんがひとりで住んでおりました。お医者と言っ
ても、おじいさん先生ではなくて、独身の若い先生です。若くても腕のいい熱心な
先生は、近所のひとたちに信頼され、忙しい日々を過ごしておりました。

「先生、いつもお世話になってる御礼に、縁談でも持ってきましょうかの」
「いいですよ、ぼくは結婚なんかより、一生懸命働くほうが大事なんですから」

　そうは言ったものの、月のきれいな晩など、診療所の窓から海にうつる月をながめて
いたりすると、なんだかさみしい気持ちになったりもするのでした。
「誰かがそばにいて、一緒に暮らしてくれたら、楽しいだろうになあ」

　そのとき、月明かりに照らされた岬の道を、海のほうから誰かが歩いてくるのが
見えました。
「誰だろう、こんな夜更けに。急患でも出たんだろうか」
　先生は眼鏡をかけて白衣を羽織り、玄関に向かいます。
　ほどなく扉を叩く音が聞こえました。
　それから、銀の鈴を転がすような、澄んだ女の子の声が。
「たいへんなの。おねがい、助けて」

　先生は、玄関のきしむ扉を開けました。
　そこに立っていたのは、見知らぬ少女。
　いいえ、少女と言うよりはまだ女の子と言ったほうが似合いそうな年格好でしたが、
とてもきれいな顔立ちで、なんだかこの世のものでないような気が、先生にはしました。
でも、白いワンピースからほっそりした足がのぞいていて、幽霊なんかじゃないことが
分かりました。桜貝の色をした爪が、白い足の白い指先を彩っています。
　先生は、彼女が裸足であることに気がつきました。

「きみは……」

　いろんな疑問が胸に渦巻きましたが、声にはなりませんでした。なぜなら先生は、
彼女に見惚れてしまっていたからです。
　腰まで届く、黒くてまっすぐな長い髪。
　つぶらな大きい瞳は、月明かりに青くきらめいています。
　真っ白できめの細かい肌、いちばん上等のサンゴのような桃色のくちびる。

「あたしは『るり』。せんせい、一緒に来て、あの子を診てあげて」

　ちいさな紅いくちびるが動いて、そう言葉をつづりました。
　先生は、はっとして戸棚から往診カバンを取り出します。その頬は、少年のように
赤くなっていたのでした。



「こんなところに患者が？」
　女の子が先生を連れていったのは岬の根元、波が打ち寄せて洞窟をつくっている場所
でした。彼女は身軽に斜面を駆けおりて、洞窟の入り口でふりむきました。
「この奥にあの子がいるの」

　先生は革靴の足が滑らないように、慎重に坂を下りました。洞窟の入り口でライトを
点けると、浅く水のたまった通路に苦労しながら進みます。女の子はライトの届かない
暗い道を、どんどん走っていってしまいました。
「はやく！　せんせい、はやく！」
　じれったそうに叫ぶのが岩壁にこだまします。
「よくもまあ、こんな暗いところを走れるものだな」
　やがて足元の水溜まりは深さをまし、やっと通れるくらいの細い道を残して、洞窟の
ほとんどは水に占められました。おそらくその先、洞窟の奥は、海につながっている
のでしょう。

「ここよ、ここなの！」

　指差す水面にライトを当てると、揺れる光の輪のなかに、なにかおおきな黒いものが
あらわれました。濡れて光る流線形のからだ、背中に一枚、ぴんと立った背びれ。
「ぼくに診てほしいっていうのは、イルカだったのか」
「病気なの。群れからはぐれて、ひとりで心細いんだけど、病気が治らないとみんなを
追いかけることもできないの。ねえ、せんせい、治してあげて！　このままじゃあの子、
病気より先に、さみしくて死んじゃうよ……」
　女の子はひといきに言うと、瑠璃色の大きな目からぽろぽろと涙をこぼしました。

　優美な弓形の眉を寄せた悲しげな表情が、先生の胸をずきんと痛くさせました。ひとり
ぼっちのイルカももちろん気の毒でしたけれど、女の子が泣いていることのほうが先生を
おろおろさせたのです。
　先生は笑顔を作り、彼女の頭をかるく優しく叩きました。
「泣かないで。ぼくは獣医じゃないけど、最善を尽くすよ」



　翌朝。
　先生は、デスクのうえに往診カバンが出しっぱなしになっているのを見ました。
「夢かと思ったけど、じゃああれは、夢じゃなかったんだな」
　一足しかない革靴は、海水にさらされて、白く塩を吹いてしまっています。
「ああ、こんなになっちゃったか。でも、患者も救えたし、これくらい、どうってこと
ないか」

　玄関のガラスに影がうつり、ノックの音が聞こえました。
「どうぞ。開いていますよ」
　診療時間にはなっていなかったけれど、先生はそんなことを気にはしないのです。
　きしむ扉から顔をのぞかせたのは、昨夜の女の子でした。
　今朝は、明るい笑顔を浮かべています。

「るりちゃんだったのか。お友達の具合はどうだい？」
「ありがとう、せんせい。もう大丈夫、群れを追って旅に出られるよ」

　先生は往診カバンを持って、彼女と一緒に、また洞窟へいくことにしました。
　彼女が裸足であることも奇妙でしたし、朝の光で見た彼女の白いワンピースは、
あちこちほつれたり破けたりしていて、どうやらサイズも合っていないようでした。
　だけど、そんな服装に関わりなく、女の子はとびきりきれいで、笑顔は先生の
胸をほっこりと暖かくします。先生は昨夜のように、すこし頬を赤らめながら、
彼女のあとに続きました。


　イルカは彼女が近づいてきたことを知ると、尾ひれで水面を叩き、キーキーと
声をあげました。
「ほら、すっかり元気になったでしょ！」
　彼女は、裾をたくし上げもしないで、ためらいなく水際に足を進めました。
かん高い声で鳴くイルカの背に、優しく腕を回します。ワンピースの裾が、
水面にふわりと白い花のように広がりました。

「じつはちょっと自信がなかったんだ。良かったよ、本当に」
「でもせんせい、あたし、お礼するものをなにも持ってないの。人間のお医者
さんは、ひとを治したお礼で暮らしているんでしょう？」
「獣医でも、人間のお医者でも、みんなそうだよ」
　先生はくすりと笑いました。彼女がどうしてわざわざ「人間の」お医者と
言ったのか、勘違いしたままで。
「それじゃあ、なにかせんせいに役立つことで、あたしにできることをひとつ、
それをお礼にするのはどうかしら？」

「ぼくの望みは、きみがぼくと一緒に暮らしてくれることだよ」

　どうしてそんなことを言ってしまったのか、後から考えても不思議だったのです
が、先生の口をついて出て来たのは、こんな言葉でした。
　先生の唐突な申し出に、女の子は笑顔を見せました。先生の胸をほっこり暖かく
する、すてきな笑顔を。

「いいよ。あたしもせんせいのこと、だいすきだもん」

　言いながら、彼女はワンピースを脱ぎはじめました。ボタンを外すと、サイズの
合わない服はするりと肩から滑り、水面に落ちました。先生はあわてて目をそらし
ましたが、白くて細い裸身と、まだふくらみきっていない幼い乳房が、脳裏に焼き
ついてしまいました。

「な、なにをするんだ？　ちゃんと服を着て、でないとそっちが見られないよ」
　しどろもどろになりながら言う先生の耳に、彼女が楽しそうにくすくす笑う声が
届きます。
「おかしなせんせい。ほんとうはね、あたしたちは、服なんか着ないんだよ。
人間の街に行くから、海で拾った服を着てったの。……もうこっち向いていいよ、
せんせい」

　ぱしゃん。大きな魚がひれで水をはねかえしたような音がしました。
　振り向くと、彼女が肩から上だけ水面に出して、こちらを見つめています。
「さっきの約束、ちゃんと守るよ。でも、この子の群れを探して、送りとどけてあげ
なきゃいけないの。それが終わったらもどってくるから、せんせい、それまで岬の
おうちで待っててくれる？」

　また水音がして、先生の目が大きく見開かれました。

　水面で跳ねたのは魚なんかではなくて、彼女の尾ひれでした。女の子の腰から下は、
サンゴみたいに輝く、きれいな桃色の鱗を持った、さかなのかたちでした。
　彼女は、人間の女の子ではなくて、ちいさい人魚だったのです。

「そうだったのか……」
　先生は呆然として、ずり落ちてくる眼鏡を、鼻のうえに押し上げました。
　ちいさい人魚は、ちょっと心配そうに先生を見上げます。
「せんせい、あたしが人魚だからって、それでキライになったりしないよね？」
「そんなこと、あるもんか！」
　先生はすぐに答えます。彼女は安心したように、ほんとうに嬉しそうに、
笑ったのでした。



　それからどうなったかって？

　先生は相変わらず腕がよくて、そして、ひとりだった頃より、ずっとずっと
幸せそうです。月のきれいな晩には、ベランダにふたり並んで、海にうつる月を
眺めながら、先生はギターを弾いて、彼女がそれはそれはきれいな声で歌ったり
しています。スカートの裾からのぞくサンゴ色の尾ひれを、嬉しくてたまらないと
いうふうにぱたぱたさせながら。

　人魚と暮らす幸せなお医者さんのお話は、たぶん今も、どこかで続いています。

おしまい　 　ひとつ戻る