「巽ィ。おまえ、小笠原に行く気ないか？」
「いいっすよ。けど編集長、俺にそんなおいしい取材まかせてもいいんですか？」
「残念だが、遊びはなし。ぎっちり取材してもらうぞ」
「分かってますって」
「おまえは潜っていられりゃ幸せだもんな」
「何言ってんです。ここにいる連中は全員そうでしょ？」
　そのときは「ラッキー」としか思わなかった。
　小笠原の海でどんな目に遭うのか、そして、どんな存在に逢うことになるのかなんて、そのときの俺には想像すらできなかったのだ。

１．

　激痛。
　なんて痛みだ！　しかも、足はびくともしない。
　苦痛のうめき声が、一連の泡となってレギュレーターから洩れる。岩に挟み込まれた右足は、どうやら折れてしまっているらしい。
　……死ぬのかな。
　ぼんやりと思う。不思議と恐怖感はなかった。
　こんな海の底で、運の悪い偶然に引っかかって、俺が死ぬ？
　なんだかそれは他人事のように思えた。この深度なら、エアが切れるまで通常のペースで二十分。ケガのせいで消費量は増えてるはずだから、せいぜい十五分で「最期」のはずだ。
　冷たい汗が目に入る。いったんマスクを取り、空気を吹き込んでマスククリアする。

　視界が回復したとき。
　青一色の視界の果てに、動くものが見えた。
　イルカだろうか。それとも、サメが血の匂いを嗅ぎ付けてやってきたのだろうか。
　後者だとすれば、俺のわずかな寿命がもう数分短くなるな。自虐的にそう思った。
　影はみるみる大きくなる。
　速い。
　それに、イルカよりはちいさい。
　シルエットは人間のように見えたが、こんな速度で泳ぐ人間がいるはずがない。
　……俺は、夢でも見ているのか？

　ハチドリが蘭の花の上でホバリングするような優雅さで、彼は目の前に停止した。
　幼さを顔立ちに残した少年の、碧い大きな瞳が俺を見つめている。海藻のように水になびく髪は、鮮やかなライトグリーンだった。
　緑色の髪だって？　これが幻覚でなかったら、いったい何だと言うんだ。
『幻覚だと思いたいのなら、そう思ってくれてもいいけど』
　はっきりと声が聞こえた。馬鹿な。ここは海の中だぞ！
『落ち着いて。慌てると、空気の減りが早くなるんでしょ』
　そんなこと、言われるまでもない。幻覚のくせに生意気なやつだ。
　その思いを読んだように、彼は声を立てずに笑った。それから、うたでも歌うように大きく口を開ける。
　もちろん何も聞こえやしない。聞こえるはずがない。

　けれど、かすかなうなりのようなものが聞こえる気がした。何かが振動しているような、ごくかすかな音が。
　足を挟み込んでいる岩が振動しているのだと気付いた、次の瞬間。
　岩がはじけた。
　粉々に砕け散り、微細な粒子が舞い上がる。いったい、どんな魔法だ？
　いぶかしむ俺に、彼はにっこりと笑いかけてくる。人なつっこい、思わず笑い返したくなるような笑顔に、膝の力が抜けた。
　いや、足のせいだ。さっきまであんなに痛かったのに、なぜか感覚がない。
『痛みは止めたけど、動かさないほうがいいよ。折れてるみたい』
　その声が鼓膜を震わせているのではないことに、俺はようやく気がついた。頭の中に直接『聞こえて』いるのだ。

『つかまってくれる？　浮上するから』
　水の中を滑るように近づいてきた彼は、俺の肩に腕を回す。
　二度と拝むことはないと思っていた水面に達するまで、二分とかからなかった。
「僕のこと、誰にも言わないでね。言っても誰も信じてくれないだろうけど」
　エキジットラダーに俺の手をつかまらせると、背後から笑いを含んだ声が言った。
　今度のは間違いなく耳に響いている。変声期前の少年の、細くて高い声。
「おまえさんは……」
　いったい何者だ？　なんで俺を助けたんだ？
「今度会えたら教えてあげる。それじゃね」
　さっきから、言葉にしなかったはずの疑問に、彼は応じている。
　そして。
　波がちいさな音を立てると、もう姿はなかった。同時に激痛がよみがえる。
　最後に残った根性をふりしぼってデッキに這い登り、そこで俺の意識はとぎれた。