| 風の傷痕（１） |
英国、サウサンプトン。 彼女が彼を見つけたのは、街のほとんどがまだ眠りについている時間だった。 夜通し働いた帰り道には、朝の海を見るのを日課にしている。その日も立ち並ぶ倉庫の間を抜け、埠頭に 向かう。冷たく澄んだ空気はいつもと同じ心地よさだが、常ならぬ気配を、彼女は感じた。 埠頭の突端、その上空にカモメの群れが騒いでいる。ギャアギャアと鳴き交わし、ときに急降下し、また 舞い上がる。 群れの下に、何かがあるのだ。 すこし恐ろしくはあったが、好奇心が勝った。 小走りに倉庫の角を曲がる。 足音に驚いてか、カモメが一斉に飛び立った。 海鳥の白い羽毛が舞い落ちるなか、埠頭の突端に横たわっていたのは。 血まみれの男だった。 まだ若く、青年といった方がいい年齢のようだ。おそらくは二十歳にもなっていないくらいの。 黒髪、象牙色の肌。東洋系の顔立ちだ。 からだの周囲には海水が水溜まりを作り、その端が白く乾きかけている。 夜の間に海に落ち、埠頭から這い上がってきたのだろうか。 目を閉じ、手足を人形のように投げ出して横たわっている。 海水に洗われたにも関わらず、彼の服といい顔といい、いたるところが血に彩られていた。 ダンガリーのシャツもブルージーンズも、あちこち裂けてどす黒い染みがある。 それも尋常な量ではない。特に、左の肩口のあたりは服地の色がわからないほどの血だった。これでは 失血死していたとしても不思議はない。 ああ、どうしよう。 死体を見つけてしまうなんて！ それでもこわごわ近寄り、のぞきこむ。 かすかな呼吸音。 息をしている。彼はまだ、生きている！ よく見ると、血もすでに止まっているようだ。 見下ろす彼女の影が、青年の上に落ちる。 気配を感じたのか、横たわったままの彼は小さくうめいて目を開けた。 思わず上げそうになる声を飲み込み、自分の口を手でふさぐ。 彼女を驚かせたのは、彼の目の色だった。 ふたつ並んだルビーのような。 深紅の瞳だったのだ。 血染めの服を脱がせて傷を洗うと、思いのほかケガは軽かった。 それどころか、数週間前のケガのように傷はふさがりかけている。 いちばんひどく血がこびりついていた肩口でさえも、白くひきつれたような跡がぐるりと腕のつけねを 取り巻いているだけだった。 この傷はいったい。 服を汚し、からだにこびりついていた血は、他人のものなのだろうか？ そんなはずはない、返り血にしては多すぎる。 どちらにしても警察に通報すべき状況だろうが、彼女はそうしなかった。 理由は自分でもよく分からなかった。 紅玉の瞳に魅入られてしまったのかも知れない、と彼女は思った。 「気を使わなくていいのよ、楽にしててね」 自分のベッドを占領した青年に向かって。 鳶色の目に暖かい光を浮かべ、彼女は微笑んだ。 包帯だらけの体を清潔なシーツにくるんだ青年は、ぎこちなく微笑み返す。 「言葉、分かる？」 ことさらにゆっくり発音してやる。 彼は、長い前髪の間からのぞく紅い瞳を瞬かせ、 「少しだけ」 たどたどしい英語で答えた。 「ここ、どこ？」 「あたしのアパート」 「違う。街の名前？ 日本じゃない？」 ブロークンだが、言いたいことは分かった。 「サウサンプトン。イギリスよ」 彼女の答えに、愕然とした様子だ。 自分がどこにいるかも分からないなんて。怪我をして、何が起こったのかも覚えていないのかしら。 彼女は自分用にソファを即席のベッドに作りながら言葉を続ける。 「あたしはアーシュラ。アーシェって呼んで。君は？」 「龍一」 「リューイチ？ それじゃ、リュウって呼ぶわね。あなたチャイニーズ？」 「いや。日本人」 彼女、アーシェはまくら代わりのクッションを叩いてふくらませた。 「そんな目の色、初めて見たわ。きれいね。ルビーみたいよ」 「きれい？」 龍一はいぶかしげな表情になる。 「きれい？ これが？」 少ない語彙を疑問形にして聞き返す。 「珍しいとは思うけど、きれいよ」 「意外だと思う…… そんな言葉は」 アーシェはくすっと笑った。 「ほんとにきれいよ。飾っておきたいくらい」 ソファに腰掛けると、髪をほどく。腰まである栗色の髪が豊かに波打った。 「さ、君も休むといいわ。あたしも徹夜しちゃったから、もう寝ないと今夜の仕事に差し支えちゃう」 後半は独り言のようで、理解できなくてもかまわないというふうに早口になった。 大きくあくびをすると、ソファにころん、と横になる。 「それじゃリュウ、おやすみなさい」 言うが早いか、安らかに寝息を立て始める。 龍一はあっけに取られたような顔をしたが、自分もベッドに横になる。 やがて静かな部屋に、ふたつの寝息が聞こえ始めた。
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