風の傷痕（２）

　龍一の着ていた服を片づけながら、アーシェは首をかしげた。
　シャツの袖が、身頃から完全にちぎれている。すっぱりと、鋭利な刃物で切り裂かれたと
おぼしき切り口。生地を染める、おびただしい量の血。袖に包まれた腕ごと切って落とされ
た結果だとしてもおかしくない。
　龍一の傷痕を思い出す。たしか、腕のつけねにぐるりと傷があった。一度切れた腕をつな
ぎあわせたかのような、白くひきつれた跡が。
「まさか、ね」
　いくらなんでも想像力過剰ってものだわ。第一、あの傷はもう、治りかかっていたじゃな
いの。彼女はかぶりを振ると、ぼろぼろになった衣類をまとめ、ごみに出す準備をした。


「服はあんまり傷んでたから、捨てさせてもらったわ。代わりにいくつか買って来たから」
　龍一はすまなそうな顔をして、頭を下げた。
「ありがとう、アーシェ。泊めてもらって、服まで……」
　流暢にとはいかないが、少しずつ言葉も出てくるようになった。

「いいのよ。好きでやってるんだから」
　軽い口調で、ひらひらと手を振ってみせる。
「でも」
「気になるんなら、そうね、ボディーガードでもお願いするわ」
「わかった。君が困ってるのを見たら、すぐ助けに行く」
　龍一があまりに真剣な表情をするので、くすりとちいさく笑ってしまう。
「お願いね」
　人に頼るのは好かない性分だけど、守ってくれようとする、その気持ちが嬉しい。東洋人
らしい律儀さであるのかと、彼女は龍一の生真面目な返答を、ただ微笑ましく受けとめた。
彼が何故そんなにも真剣であるのか、知らないままに。



「どうしたのリュウ、明かりもつけないで」
　日も落ちて真っ暗なキッチンで、龍一はテーブルに頬杖をつき、なにか考え込んでいたら
しい。アーシェがライトを点け、声をかけて初めて、我に返ったように顔を上げた。アーシェ
はテーブルの上に食料品でいっぱいの袋を置き、苦笑する。
　龍一の前には、タブロイド版の日刊紙。

「こんなに暗くちゃ、新聞なんか読めなかったでしょうに。居眠りでもしてたの？」
　軽く首を振って問いに否定の意だけ示し、龍一は右手で２リットル入りのミルクのボトル
を受け取って、冷蔵庫にしまう。一週間ほど経ち、いちばん怪我のひどい左腕をかばいなが
らも、すこしずつ龍一は身体を動かせるようになってきている。

「暗くても明るくても関係ないんだ、俺には」
　ひとりごとのように、ちいさく龍一がつぶやいた。
「なんのこと？」
「なんでもない。それより、仕事の行き帰り、送っていったほうが良くないか？」
　広げた新聞の一面を示す。

　この付近で起こった連続暴行事件、失踪事件に、変死体の発見。世の中のタガが外れてし
まったみたいに、物騒な内容の大きな見出しが並んでいる。
「最近、危ないことが多いだろう」
「そう言えば、このごろ事件が増えたわね。だけど、イエローペーパーを鵜呑みにしないほ
うがいいわよ。送り迎えも遠慮しとく。バーの連中があなたを見たら、あたしが冷やかされ
ちゃうもの」

　気持ちだけもらっておくわね、とアーシェは笑った。龍一は、なにか気になることがある
らしい。左肩の傷を右手でかばうように覆いながら、新聞に目を落としたままでいる。
「まだ怪我が治ってないでしょ。ひとの心配より、自分のことを考えなさいな」
　アーシェはまた笑って、龍一の額を人差し指で軽くつついた。



「いやっ！　やめて！」
　いつも通る道、しかも早朝だから大丈夫、そんな油断が仇になったのか。風体の良くない
見知らぬ男に路地裏に連れ込まれ、抵抗する間もなく、引き倒されて押さえつけられてしまっ
た。
「やめてってば！」
「誰がやめるかよ」
　びりびりと音を立ててブラウスが破かれ、下着がむき出しになった。汚れた手で乱暴に乳
房をつかまれ、あまりの痛さに涙が出そうになる。

「助けて！　誰か！」
　悲鳴を上げると、
「このアマ！　静かにしやがれ」
　強く横面をひっぱたかれた。耳がキーンと鳴り、視界が暗くなる。それでも男の手が下着
にかかるのを、弱々しい動きで阻止しようとする。
「逆らっても無駄だぜ。ちょっとぐらい抵抗された方が楽しいけどな」
　ひっひっ、と粗野な笑い声を上げる。

　突然、男の右手がアーシェから離れ、糸で引かれたように垂直に持ち上がった。
「なんだ、これは」
　彼の意志ではない。腕ごと上に伸ばされねじり上げられ、男は苦痛と狼狽の声を上げる。

「痛いか？」

　背後から、声が聞こえた。日本語なまりのある短い問いかけに、男とアーシェの視線が、
声の方を向く。行き止まりになった路地の奥、つい今しがたまで誰もいなかったその場所に、
龍一が立っていた。

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