風の傷痕(3)

 出入りする術のない袋小路、ブラインド・アレイに、あの若造はいったいどこから現れた
のか。驚きと混乱が男の動きを止める。

 たたみかけるように龍一は言い放った。
「腕が痛いだろう。もっと痛むのがいやなら、帰れ」
 言葉はたどたどしいものの、低い声には怒気があふれている。

 龍一の出現と、腕の異変から生じる薄気味悪い感覚は、本能からくる警告だった。しかし、
何者かが男の内でささやき、警戒心は攻撃衝動にすりかわる。わけのわからないものは、殴
り飛ばして黙らせればいい。
「ガキが。なめやがって!」
 利き腕を宙に固定されたまま、龍一につかみかかろうとする。
 一歩踏み出そうとした姿勢で、男の身体は凍りついた。右手と足だけではない、指の先ま
でが、ほんの少しも動かすことができない。男は無意味に口を開閉し、その顔には汗の玉が
浮かんだ。

 硬直した男に、龍一のほうが歩み寄る。
 その瞳は、燃えさかる炎を封じ込めた、一対の鮮烈な赤。そこに浮かぶ怒りの色が男を圧
倒する。身体を拘束している得体の知れない力は、目の前にいる青年が発しているのだ、そ
う悟った男は恐怖に駆られ、哀願の表情を浮かべて首を振った。

 龍一は、怯える男の顔をのぞき込む。
「おまえはアーシェを傷つけた。代償を払ってもらおう」
 言葉と同時に、男の右肩でごきりと鈍い音がして、彼はその場にくずおれた。激痛ととも
に腕が垂れ下がり、言うことをきかなくなる。

「人に使うための力じゃないからな。おまえが〈来訪者〉なら、この程度ですますつもりは
ないけど」男には分からないのを承知で、日本語でつぶやく。
「おまえらが暴れてるのも、あいつの影響か。早いとこ探し出して、ケリをつけないと」
 焦りを感じつつも、傷は深すぎ、回復にはまだ時間を要する。こんな状態では、とてもあ
の〈来訪者〉とは対峙できまい。龍一はその赤い瞳を閉じ、また痛み出した肩の傷を押さえ
て、深く息をついた。
 アーシェに向き直り、右手を差し出して彼女を立たせる。

「すまないアーシェ、来るのが遅くなって。歩ける?」
 上着を脱ぎ、破れたブラウスの上から着せ掛ける。
「なんとか大丈夫よ」
「じゃ、帰ろう」
 二人は立ち去り、路地裏には、放心したように座り込んだままの男が残された。



「大変だわ、血がこんなに」
 部屋に帰り着いたアーシェは、自分のことよりも龍一の姿に声を上げた。
「もう止まってる。それより、服を汚してしまった」
 龍一は朱に染まった左肩を見下ろし、真新しいシャツの惨状に眉をひそめる。
「そんなのはいいわ! 脱いで、傷を見せて」

 アーシェの剣幕にとまどい、それでも素直にシャツを脱ぐ。痛みにちょっと顔をしかめた
が、乾きかけた血がバリバリと音を立てるのも構わずに袖から左腕を引き抜く。血を拭き取
ると、そこには最初に見たときと同じく、白くひきつれた傷があるきりで、出血の痕跡はま
るでない。
「どういうことなの、これは」
 龍一は困った顔をしたが、言葉を探しながらゆっくりと話し始めた。

「この傷はまだ治っていない。血止めして、力で覆って押さえていたんだが、さっき、別の
力を使ったから……」
「〈力〉って?」
 アーシェの鋭い声。
「なんて言ったらいいのか、つまり、いろんなことを同時にやるのは大変なんだ。あの男を
やっつけたら、つい、傷のほうに気が回らなくなって」
「そうじゃなくて、どうしてそんなことができるのか、って聞いてるの」

 天井を見上げ、それから龍一は言った。
「言っても信じないだろう?」
「この目で見たんだもの。信じるわよ」
 どうやら彼女は、理由を知りたいだけなのだ。怯えられ、拒絶されるよりずっとましだが、
慣れない言葉で説明するのは骨が折れる。

「サイキックって知ってる?」
「コミックブックとか、ジャパニメーションに出てくるような?」
「そう。あれみたいなもので、『何故』とか『どうやって』って訊かれても答えられないけ
ど、俺にはできるんだ」
 アーシェは目を丸くした。
「ほんとにあるの、そんなこと」
 龍一はうなずき、
「俺が怖い?」意を決したように、短く問い返す。

 彼女はためらいなく首を振り、
「助けてくれてありがとう。約束守る人って、好きよ」
 微笑んだ。
 笑いかけられた龍一の方が戸惑うような、開けっぴろげな笑顔だった。


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