いぢめっこミハエル

　優。どうしておまえはしあわせそうなんだ？
　地上で暮らすことを許された者ではないくせに。
　人間ですら、ないくせに。
　……俺と同じように。

　彼女を誘い出すのは、彼の『能力』をもってすれば簡単なことだった。
　彼を連れてくるためには、『能力』を使うまでもなかった。彼女がいれば事足りたのだ。
　〈天使〉の名を持つ青年は、望み通りにショウタイムを開始することができた。

「さあ、優。がまんしないで彼女に正体を見せてあげなよ」
　言うと、床に座り込んだ優の目を上からのぞきこむ。
　白に近い金髪。ブルーグレイの瞳には、年経たもののように虚無的な光をたたえている。
「ミハエル……なんで、こんなこと……するんだ」
　優は一語ずつ息をつきながら、かすれた声で言った。高校の制服のまま縛られていて自由がきかないのだが、動けないのはそのためだけではない。大気と重力が、彼の呼吸器と全身を痛め付けているのだ。

「理由なんてないよ。強いて言えば、君が嘘をついてるのが面白くないってことかな」
「僕は、嘘なんかついてない」
「じゃなければ、隠しごとだよ。言い方を変えたって同じことさ」
　ちいさく笑みを見せると、玲（あきら）の縛り付けられている椅子に歩み寄る。
「ごめんねお嬢さん、手荒なことして」
　さるぐつわを外したとたん、玲は機関銃みたいにまくしたてた。
「なによっ、さっきから訳の分かんないことばっか言って！　優を放して、あたしをここから出しなさいよっ！」
　玲の剣幕に、ミハエルは大げさに驚いてみせる。
「これはまた、聞きしに勝る気の強さだね。日本女性はもっとおしとやかだと思ってたけどな。もう少し行儀よくしないとお嫁のもらい手がないよ」
「よけいなお世話よ！」
　ポニーテイルを振り立て、ブルーグレイの瞳をにらみつける。玲の剣幕も意に介さず、ミハエルはくすりと笑った。
「威勢のいいお嬢さん。君のボーイフレンドは、どんなにじゃじゃ馬でも好きでいてくれるみたいだけどね、君はどんなことがあっても彼を嫌いになったりしないって誓えるかい？」
「なっ、なっ、何を」
　唐突な質問に、玲は絶句したまま真っ赤になった。
「僕は知りたいんだ。君が本当のことを知っても、優を愛し続けることができるのかどうか。……優はね」

「ミハエル！」

　優が鋭い口調でさえぎった。
「やめろ。それ以上言うな」
　叫んだことでよけいに消耗したのだろう、肩で息をしている優を見下ろして、ミハエルは薄く笑った。
「息が荒いよ。もう、呼吸ができなくなってきてるんだろう？　僕がいま彼女に言わなくても同じことじゃないのかい」
「……」
　優は押し黙ったまま、荒い呼吸を繰り返す。
「優、具合悪いの？　ねえ、大丈夫だよね？」
「そうだねぇ。このまま放っておいたら死んじゃうよね、優」
　のどの奥で、くくっ、と笑い、
「でもね、その前にお嬢さんに君の本当の姿を見られちゃうんだよ」
　優しいと言ってもいいほどの柔らかな声音で、玲にささやく。
「本当の姿って、それ、いったいなんのことよ？」
　いぶかしげに眉をはね上げる玲に、優が応えた。
「なんでもないよ、玲。なんでもないんだ……」
「まったく君は強情だねえ。仕方がないから、僕が楽にしてあげよう」
　ため息をついて見せ、部屋の片隅に視線を向ける。

　そこには大きな水槽があった。
　アクリルガラス製の、水族館で使うような本格的なものだ。一杯に水が入っている。
「海の匂いが分かるかい？　調達には苦労したけど、海水を入れといてあげたよ。君のためにね」
　ミハエルが滑車を操作する。優は手足を縛られたまま、水槽の上に吊るし上げられた。
「なにするの！　やめてよ、こんなこと」
「黙ってた方がいいよ、お嬢さん。面白いものを見せてあげるから」
　ミハエルは微笑んだ。こんな場合でなければ無邪気と言ってもいいような笑みだった。
　優は苦しげに息をつき、かろうじて声を絞り出す。
「ごめん、あきら。僕は……！」
　優と玲の視線が、一瞬だけ交差した。が、優はその言葉を終えることはできなかった。
「優！」
　水音が玲の悲鳴に重なる。
　いつもの優なら、手足を縛られていても泳ぐことができただろう。が、いまの彼はあまりに消耗していた。優の体は、白い気泡をまといつかせながら水槽の底まで沈んでいった。

「もうやめて！　ねえ、優を助けて！」
　今にも泣きだしそうな声だ。ミハエルは玲の肩に手をおき、ささやくように言った。
「大丈夫なんだよ。よく見てるといい。もっとも彼は、君に見て欲しくはないだろうけどね」
　つい先刻まで荒い呼吸をしていた優が、そんなに長い間息を止めていられるはずがなかった。玲の見つめる前で、詰めていた息を吐き出す。
　吐いた気泡が水面に達する前に、優の黒髪が鮮やかな緑色に変わった。苦しげに目を閉じ、身をよじる優。だが、溺れて苦しんでいるのではない。彼の身体には、なにか大きな変化が起こっているのだ。
　予期せぬ出来事に、玲はとまどいを隠せない。

「なにこれ……？　どうしちゃったの、優」
　やがて、優の動きが止まった。
　全身の力を抜き、水に身をまかせている。
「楽になっただろう？　人間なんかに化けてるより、君はその姿の方が美しいじゃないか」
　笑いを含んだミハエルの声に、水槽の中で優が顔を上げた。
　緑の髪が揺れる。瞳の色も、深いブルーに変わっている。玲の視線に合うと、悲しげに目を伏せた。
　ミハエルは芝居がかった仕草で水槽に向かって手を振る。
「これが優の正体なんだよ、お嬢さん。彼は人間じゃない。水に棲むもの、君とは種族が違うのさ。分かったかな？」

　優の胸が動いている。
　水の中で呼吸しているのだ。ミハエルの言うことはどうやら本当らしい。玲が絶句するのを見て、ミハエルは心底楽しそうに笑う。
「ご感想は？　これでも彼のことを好きって言えるかな？」
「信じられない。こんなのってないよ……」
　現実を拒否するかのように、弱々しくかぶりを振る。
「そう。信じられないのも無理ないね」
　ミハエルは、その名のとおり天使のような笑顔を見せた。
「じゃあ、ついでにもうひとつ衝撃の事実を教えてあげよう。彼は声帯の使えない水中で、どうやって意志疎通すると思う？　精神感応ってやつを使うんだよ。つまり、彼は君の心が読めるのさ」
　玲の顔が蒼白になる。
「嘘……」
「嘘じゃないよ。優はきっと、君が隠しておきたかったこともみんな知ってる」

　ドン、と鈍い音がした。
　水槽の方だ。優が縛られていた縄を引きちぎり、自由になった両手で水槽を内側から叩いたのだ。
　燃えるような碧い瞳が、ガラス越しにミハエルを見据えている。
「いい感じだね、優。君のそんな顔をみたかったんだよ、僕は」
　ミハエルは目を細くした。唇の端がきゅっと吊り上がる。
　玲は押し黙ったまま、床に目を落としている。

「さあ！　僕のショウはこれでおしまいだよ。お嬢さん、長いこと拘束したりしてすまなかったね。家まで送らせよう」
「いい。ひとりで帰れる」
　固い声で玲は言った。
　振り向いた玲の視線が、一瞬だけ優を捉える。彼女はひるんだように目を逸らすとかばんを抱え、一目散に駆け出して行った。

「さて、優。君はどうする？　彼女を追いかけなくていいのかい」
　優は唇を引き結び、何も答えない。彼の表情には、怒りも、悲しみさえも感じられなかった。髪だけが水の中で逆立ち、ゆらめいている。
「ああ。あれだけ消耗したんだ、しばらくは水から出られないよね。僕もそろそろ退散するけど、回復したら勝手に帰ってくれて構わないから」
　部屋を出ようとして、ふと振り向く。ミハエルの冷たい瞳に、つかの間感情がよぎった。
「優。しょせん人間は異質な存在を受け入れることはできないんだ。よく分かっただろう？」
　その言葉を残して、彼も立ち去る。

　あとには水槽の中の優だけが取り残された。

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