彼と彼女のトラブル（３）

　深夜。
　誰もいない港に、かすかな水音がした。
　水掻きのある手が桟橋の端にかかり、小柄なからだを持ち上げた。
　優は姿を変えることもせずに、桟橋に腰掛ける。
　係留された船たちにぶつかる波の音が、低く絶え間なく聞こえていた。


　隆之の元を離れてから、優は海をさまよった。
　からだが耐えられる限りの深い海に潜り、地上のことを考えまいとした。なのに、海の底に
いても、思い浮かぶのは陸のこと、そして玲（あきら）のことばかりだった。
　気がついたときには、いつのまにか隆之の船のあるマリーナに来ていた。

（皮肉だよね……　海から離れては生きられない体なのに、僕はもう、海だけで生きて行く
ことはできないんだから）

　胸に潮風を吸い込み、海に視線を投げながらそう思った。
　夜光虫が波頭をきらめかせている。
　幼い頃は、父母と海だけが優の世界のすべてだった。父の話してくれる陸の暮らしや人間の
　都会にあこがれてはいたが、単純で素朴で、悩みのない生活だった。

　隆之と出会い、陸で暮らすようになってから、三年近くになる。
　地上の生活は騒がしくて刺激的で、そして友人たちは胸が震えるほどいとおしかった。父母
以外の失いたくない存在を、はじめて知ったのだ。

　そして。
　ずっと一緒にいたいと思った女の子、玲に、あんな形で正体を知られてしまった。
　彼女の心にあったものは恐怖、そして拒絶。
　僕が人間じゃなかったから。
　彼女の心を読んだから……

　優はひざを抱き、顔を伏せた。
　知らず知らず、自らを守るように抱いた手の指には水掻きがある。それは海に棲むものの証
であり、自分と彼女を隔てるものの象徴だった。

　嘆きの深さが、鋭敏な感覚を曇らせたらしい。
　すぐそばに人影が近づいているのに気がつかなかった。
「！」
　はっと思ったときには、懐中電灯の明かりの輪にとらえられていた。
「逃げなくてもいい。優坊だろう？」
　穏やかな声が、海へ飛び込もうとする優を止めた。
　声の主はマリーナの管理人、比嘉老人だった。


「なんだか胸騒ぎがしてな。見回りにでたらおまえさんがいたんだよ」
　港の端にあるちいさな小屋に、比嘉老人は優を招き入れた。
「こんな夜中に誰も来やしないよ。なにも気にしなくていい」
　ためらいはしたものの、優は海の姿のままで老人の招待に応じた。
　初めて会ったときも、彼は何も聞かずに服や靴を貸してくれた。あのときと違うのは、優が
人間の姿をしていないことだった。

　小屋に入ると、優はすすめられた椅子に腰かけた。濡れた体には、老人がバスタオルをかけ
てくれた。寒くはなかったが、優はその心遣いを嬉しく思った。

「おじさん、僕の正体を知ってたんですか」
　テーブルのうえにひじをつき、老人を上目遣いに見る。
「いいや。ただ、海の匂いのする、変わった子だとは思っていたよ。
　あのとき、おまえさんは海から来たって言ったんじゃなく、海に住んでるって言ったんだな。
　今になって分かったよ」
　老人は楽しそうに笑い、言葉を続けた。

「わしの故郷の言い伝えでは、海の向こう、ニライカナイというところには人魚がすんでる
　というんだ。優坊がそうだとは思わなかったがな」
　比嘉老人は、立って冷蔵庫のドアを開けた。枯れ枝のような、だが力強い腕が、麦茶の入った
冷水筒を取り出す。
「お茶でもどうかね？　わしのようなじいさんが相手ではつまらないかも知れんが」
「いただきます」
　優もようやく緊張を解き、ちいさく微笑んだ。

　テーブルの上に、氷を浮かべたふたつのグラスが置かれた。
　老人は黙って麦茶を飲み干した。喉仏が動いて、はあっと満足げにため息をつく。

　グラスの表面が汗をかき、テーブルに滴ってちいさな水溜まりを作るまで、優は黙ってそれ
をながめていた。
　老人は何も言わず、ただ静かに座っている。
　氷が溶けて、チリンとかすかな音がした。

　優はようやく顔を上げた。
「おじさんは……　僕が怖くないんですか？」
「そんなふうに思ってたら、招んだりはせんよ」
　おだやかに笑う老人に、優は消え入りそうな声で言った。
「僕があなたの心を読めるとしても？」
「そうだなあ。たとえそうだとしても、優坊は優坊じゃないか」

　老人の言葉に、優はいまにも泣き出しそうな顔をした。

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