薄目を開け、意志を振り絞って首をもたげる。
　声の主は、幼さをいくぶん顔立ちに残した、小柄な少年だった。
碧の瞳、黒い髪。おそらくは日系の外国人だろう。俺に声をかけるなんて、この国の人間じゃないだろう
とは思ったが。

　彼は路面にジーンズの膝をつき、俺を抱き起こす。ひんやりした手が額に触るのが気持ちいい。
「どこか具合でも悪いんですか？」
「ああ、病気なんかじゃない、んだ」
　また襲ってきた痛みに目を閉じ、かろうじて言葉を絞り出す。
　この苦痛を止める唯一の言葉を相手に伝えられれば、俺は解放される。
　だが、それは禁じられている。俺の精神の奥深くまでを縛り付けている条件付けによって。バカみたいな
話だが、解決する手段がすぐそこにあるのに、俺には手が届かない。
　俺の心を読みでもしない限り、他人には解放のキーワードを知る術がないからだ。
〈ガーデン〉のやつらの仕事と来たら、いやになるほど念入りなのだ。

　俺の額に当てた少年の右手が、ぴくりと小さく震えた。
　見上げると、少年の瞳の色が深みを増したように思えた。
　見間違いではない。碧が深まり、青みを帯びる。
　と、同時に俺の心に何かが触れた。
　これは。
　この感触は……

　少年の目にためらいが浮かんだ。
　が、それを振り切るように決意の表情を浮かべると、俺の耳元に顔を寄せる。彼はちいさな声で、
だがはっきりとこう言った。
「Michael, Listen to Me. Listen the KEYWORD.（ミハエル、僕の言葉を、キーワードを聞きなさい）」
　告げたはずのない俺の名。
　続く一連の語句は、条件付けを発動させるための前命令（プレコマンド）だった。

　彼は、俺の心を読んでいる！

　驚愕に凍り付く俺を、深い碧の瞳が見詰めている。
　そして彼は。
　絡み合った視線を断ち切るように、
「God's in his heaven, all's right with the World.（神は天にいまし、全て世はこともなし）」
　ブラウニングの詩の、有名な一節をささやいた。
　解放のキーワード。
　俺の心の中にしか存在しないそれを、少年は一言一句違わずに言ってのけたのだった。

　全身を縛り付けていた苦痛が、嘘のように消え去る。
　頭を振り、身を起こす。立ち上がろうとすると彼は手を貸してくれ、低い声で言った。
「駅の方から追手が二人、こっちに向かって来てます。微弱なテレパスか、訓練を受けた人間でしょう。
たぶん、人込みに紛れ込めば追っては来れません。そこの階段から地下街を通って、地下鉄の駅へ
抜ければ大丈夫」
「お前は……」
　少年は答えず、ただ、ちいさく笑ってみせた。
　内緒だよ、とでも言うように。

　俺の心を読み、追手の気配を察知することができるなんて、たいしたテレパスだ。
　こいつも俺の同類か。いや、もっと強い、もっと違う『何か』だ。そう俺の本能がささやく。
「早く行った方がいいですよ」
　心から俺を案ずる声だった。俺はうなずくと、身を翻した。
　地下への階段を駆け降りる。地下街に入り、地下鉄の駅へと向かいながら、笑いが込み上げてくるのを
感じていた。

　自分以外の能力者に出会ったのは初めてだ。しかも、ただのテレパスではあるまい。
　なんで俺なんかを助けたのか知らないが、面白い。後で絶対に探し出して、秘密を探り出してやろう。
　俺の心は、新しい玩具を見つけた子供のように喜びに満ち溢れていた。
　きっと、近いうちに、必ず。



「ごめん、優、待った？」
「そうでもないよ」
　玲（あきら）は、新宿アルタの地下階段を駆け上がり、優の姿を認めると歩道のほうへ駆け寄ってきた。
彼女が新しい水着を買いたいというので、今日はみんなでショッピングということになったのだ。優の
「保護者」である隆之が同伴なので、デートとはいかないのが玲には不満なのだが。
「なに笑ってるの？　なんか面白いことでもあったの」
「ちょっとね。それより、タカさんが待ってるよ。早く行こう」

　白に近い金髪にブルーグレイの瞳、それに強力な暗示能力を持つ美貌の青年、ミハエル・ロットナー。
　彼が那神優に深刻なトラブルをもたらすのは、少し先の話になる。

おしまい。　◆もどる◆