イルカの歌は門の鍵

　身体が、元の姿に、人魚に戻りたがってる。

　息もまだ苦しくはないし、タイムリミットには間があるはず。
　なのに、もう、変化を止められない。
　人魚の姿を他人に見られたらおしまいだし、未熟なあたしは、再び人間の姿になるのには、
　水と休息が必要なの。

　早く、早く水のあるとこにいかなきゃ……
　
　言うことをきかない足をひきずって、裏門へ急ぐ。学校の敷地から出て角を曲がる。
　お兄ちゃんの教えてくれた『避難所』は、すぐに分かった。
　フェンスと庭木の向こうに見える、イルカをかたどった噴水。
　それに、感じる。水のにおい。

　だけど、庭園の入り口は、鉄製の門で閉ざされていた。

「お願い、入れて！　門を開けて！」

　そのとき、信じられないものを、あたしは聞いた。

『わたしは門の守護者（ゲート・キーパー）です。あなたは誰ですか。名乗ってくださらないと、
　門を開けることはできません』

　イルカの声！
　誰何している。
　録音されたもののようだけど、人間には聞こえない周波数の声。

　どうして、こんな場所に？　でも、考えてる暇はない。
　作法通りに、あたしは歌った。


　　　あたしはノア、〈東の海〉の人魚の娘。
　　　母は大地の民アキラ、父は海の民ユウ。
　　　群れの長はサキ、〈古き海竜〉の祭司。

　　　見知らぬ群れよ、あたしに敵意はない。
　　　受け入れて、ひとときの憩いを与えて。


　それは、はぐれたイルカが他の群れに会ったときの歌。
　最後の音が消える前に、門が開き始めた。

『どうぞ、お入りください。あなたにはこの庭で休む資格があります』


　門をくぐり、あたしは池に駆け寄る。
　中央にはイルカの噴水。
　巨木が水面に濃い影を落とす、静かで大きな池だった。

　ローファーとハイソックスを脱ぎ捨てて、池に飛び込む。
　同時に両足がひとつになり、しなやかな魚の尾ひれに変わってゆく。
　パンティだけは間に合わなくて、裂けて脱げ落ちてしまった。

　イルカのように身をくねらせ、ひれを二、三度ひらめかせて、池の底まで潜る。
　池は思ったよりも深く、水は海水じゃないけど、冷たくて気持ちがいい。
　湧き水が流れ込んでいるみたい。

　池の底で、水に身体をあずける。
　水はやさしく包んでくれる。
　おおきく胸を波打たせて、あたしは深呼吸を繰り返した。
　本当に、思ったよりも疲れていたみたい。
　ひさしぶりに心底から安らいだ気持ち。

　見上げると、水面の向こう、若葉の茂った枝々に午後の陽光が透ける。
　噴水の飛沫が、波紋を広げている。
　ゆらゆら、きらきら。

　きれいだなあ……

　あたしはぼんやりとそう思いながら、眠りに落ちていった。
　制服のスカートの裾から、人魚のしっぽをのぞかせたままで。



　誰かが、心の隅をつついている。
　う〜ん、まだ眠いよう。

　あれ？
　朝じゃない。見慣れたバスルームでもない。
　ここがどこで今がいつか分からなくなったあたしの頭に、レイお兄ちゃんの声が響いた。

「いつまで寝ぼけてるんだ？　早くあがってこいよ、ノア」

　ちゃぷん。
　水面に顔を出す。
　もう夕方だった。
　木漏れ日も、夕焼けの黄金色に染まっている。

「……お兄ちゃん」
「着替えだ」

　簡潔な、と言うよりはむしろ無愛想なレイお兄ちゃんの言葉。
　あたしは岸に泳ぎ寄り、お兄ちゃんの差し出す紙袋をのぞく。
　体操着と予備の下着、大判のバスタオル。
　それから制服の上下。

「これ、お姉ちゃんの制服？」
「ああ。ローザが用意してくれた。おまえがこんなことになってるのを見つけて、俺に教えて
　くれたのもローザだ。感謝しろよ」
　どうやって知ったのか、聞くまでもない。
　お義姉ちゃんには、他のひとには見えないものが『見える』んだから。

「ありがとう、レイお兄ちゃん。ローザお姉ちゃんにも」
「言っとくよ。それより、上がったらどうなんだ。もう少し、ここで休みたいか？」
「ううん。家に帰らなくちゃ」

　水面に肩から上を出している、自分のからだを見下ろす。
　まだ新品と言っていいアイボリーのセーラー服は、もちろんびしょ濡れ。
　生地が重たく水を吸って、腕にまとわりついてくる。
　水のなかで鮮やかに揺らめく、深紅色のスカーフ。
　ネイビーブルーのスカートからのぞく魚のしっぽ。おおきな尾ひれが、ゆらゆらと水を掻いている。
　こんなに濡らしたら、プリーツが全部取れちゃうな。
　なんてことが、いまさらだけど頭に浮かぶ。

「ついにやっちゃったなー。せっかく可愛い制服だったのに」
「だから言っただろう。俺たちは地上向きの身体じゃないんだから。
　夏服は、忘れずに予備を注文しとけよ」
　レイお兄ちゃんは言うと、踵を返した。

「あの！　ほんとにありがとう、お兄ちゃん。それと、ごめんなさい。おとうさんたちとサキさん
　には、このこと……」
　両親はともかく、『群れの長』であるサキさんに知れたりしたら、問答無用で連れ戻されちゃう。

「こんなこと、いちいち報告してたらサキさんが頭痛を起こすだろう？　なんのために俺がここに
　いると思ってるんだ。おまえとローザを守るためなんだからな」

　振り向きざまのお兄ちゃんの笑みは、妹のあたしでさえ胸がきゅん！　としちゃうほど。
　おまけに、うるうるしちゃいそうな言葉も一緒。
　無愛想な兄貴でも、妹思いではあるのよね。



「さつき、ひーちゃん、昨日はごめんねー。
　ひと晩ゆっくり寝たら、治っちゃった。あはは」
「たいしたことなくて、よかったじゃない」
「あれ？　ノアちゃん、なんで２年の制服なんか着てるの？」
「う〜っ。これ、ローザお義姉ちゃんから借りたの！
　あたしのは、えっと、ホットドッグ食べてて、思いっきりケチャップこぼしちゃったんだよ！
　落ち込んでるんだから、追求しないでよぉ」
「ノアって、思ったよりどんくさいのね……」
「ほんとよねー。おとなしく座ってればそんなふうに見えないのに」

　さつきたちには本当のことは言えないので、適当な嘘をついてしまい、余計に気が重くなった。
　新品の制服で泳いじゃうなんて、それだけで落ち込む材料には充分だったんだけど。


　それにしても。
　たかがホームシックとか、お魚に話しかけられたくらいで人魚に戻っちゃうなんて。
　あたしもまだまだ修行が足りないのねー。

　でもでも。
　こんな体質なんかに負けるもんか。
　せっかく地上にいるからには、楽しいこと、いっぱい経験するんだもんね！
　あたしは、そう決意を新たにしたのだった。

おしまい　 　【第３話へ】　 【NEXT】準備中 　ひとつ戻る