熱帯魚に誘われて

「那神ノア、いるかな。ちょっと話があるんだけど」

　お昼休み。
　レイお兄ちゃんがうちのクラスに顔を出したとき、あたしをのぞく女子生徒は、残らず歓声を
　あげた。


「あれが噂の黎さん……　美しい！　美しいわぁ！」
「やだ〜！　ホントに美形なんだ〜」
「今度、お兄さん紹介して！　絶対よ！」

「はいはいはい」

　あたしは投げやりに言うとお弁当箱を片付け、教室を出た。

「ノア……　あんたも、もうちょっと顔に似合った話し方しなさいよねー。
　だまって座ってれば美少女なんだから」

　さつきがため息まじりにそうつぶやいてる。
　ちいさな声でも、ちゃんと聞こえた。人魚はすごく耳がいいんだよ。
　だけど、さつきに返事を返す余裕もなく、どんどんお兄ちゃんは歩いていってしまう。
　あ〜ん、待ってよぉ！

　あたしはまだ、歩くことにそんなに慣れていない。
　早足で歩かれると、ついてゆくのがやっとなの。
　レイお兄ちゃんは、階段の踊り場まできて、ようやく歩調をゆるめてくれた。　


　校舎を出る。
　入学式から半月。風はもう、初夏のにおい。
　あたしは中間服だし、お兄ちゃんも上着を脱いで、上はシャツとベストだけ。
　カレンダーよりは早いけど、来月には夏服が要るかも知れない。

　裏門の近くまで来て、ひとの気配がないことを確かめてから話し出す。

「お兄ちゃん、クラスの女の子たちがうるさかったでしょ。心で呼び出してくれても良かったのに」

　あたしのテレパシーはそれほど強くはないけど、校内でお兄ちゃんと話す程度には充分なの。
　外見もだけど、このあたりもおとうさんには似なかったんだよね。

「おまえ、兄貴を呼んでこいって言われてるんだろ？　サービスだ」
　涼しい顔で、そんなことを言うの。どこまで本気か分からない。
　でも、女子全員に期待（なにを？）されてるのは確かなので、その読みは鋭い。
「あはは、サービスか。たしかに喜ばれたとは思うなー」

　ふと表情をやわらげると、お兄ちゃんはあたしの前髪を手のひらでくしゃくしゃかき回した。
　ちいさい頃、島の浜辺でそうやってたみたいに。
　あたしは嬉しくて、いま尾ひれがあったなら、盛大にぱたぱたしちゃってるとこ。
　もう、ブラザーコンプレックスとでもなんとでも、好きに呼んで、って感じ。

「で、話ってなに？」

「ノア。身体は大丈夫なのか？」
「いまのとこ、なんともないよー。こっちに来るまえに試してみたら、３日くらい水から離れてても平気
　だったけど、いちおう夜は水の中で寝るようにしてるし」
「島とここでは環境が違う。授業だってあるし、おまえは自分で思ってるより疲れてるはずなんだ。
　ちょっと気持ちが揺らいだくらいで、簡単に元の姿に戻ってしまうくらいに」

　あたしは腕を組み、ぷうっとほっぺたをふくらましてみせる。

「やだなー、お兄ちゃん。
　あたし、いっぱい練習したんだもん。それに、お兄ちゃんよりあたしの方が、ずっと長く陸に
　いられたじゃない」
「昔はな。それに俺だって、こっちに来たばかりの頃は何度も危ない目に遭ったから言うんだ」

　ああ、真剣なお兄ちゃんの目って、とっても綺麗だな。
　ほんとに翡翠みたいな緑色なんだもん。
　とか、余計なことを思っちゃうあたし。

「大丈夫だったら！　妹思いなのは嬉しいけど、ちょっと心配症なんじゃない？」
「ったく。危機感がないなあ、おまえは」
　言葉とは裏腹に、レイお兄ちゃんはやわらかい笑顔をみせた。
「いちおう教えとく。急に水が欲しくなったときの避難所があるんだ。裏門を出てちょっと行くと、
　フェンスからイルカの噴水が見える。覚えておけよ」



　で。
　数日後。事件は起こってしまった。
　お兄ちゃんの心配どおりというか、なんというか。
　こんなに早く『避難所』を使うことになるなんて思ってもみなかったんだけど……


「ノアちゃん、たしか熱帯魚とか好きだったよね？」

　同じクラスの榊ひろみさん（通称ひーちゃん）が言った。
　茶色っぽくてウェーブのかかった長い髪（校則うるさくないからね）、くりくりした大きな瞳。
　クラスでも抜きんでて背が高いのが、ちょっとうらやましい。

「うん。好きだよー。でもなんで？」
「生物教官室でね、エイジ先生が趣味でアクアリウム作ってるんだって。
　さつきも一緒に見に行かない？」
「面白そうだね」
「行くー！　ありがと、ひーちゃん、誘ってくれて」
「だーかーらー！　そやって無差別に抱きつくんじゃないのー！」

　……ちぇっ。ひーちゃんにまで、怒られちゃった。


「こんにちはー！」
「失礼しますう」
「エイジ先生、お言葉に甘えて来ちゃいましたぁ」

　放課後。
　あたし、さつき、ひーちゃんは連れ立って生物教官室を訪れた。

「やあ、いらっしゃい」
　あたしたちの入学と同じ時期、４月から新卒で採用された生物の宮部英司先生。
　年齢も近いし、授業はわかりやすいし、なによりかっこいい。
　長身にサラサラの髪、輝く白い歯。
　これで彼女がいないわけないとは思うけど、女子生徒たちに絶大な人気を博しているのよね。

「すごぉい、本格的なんですねえ！」

　さつきが歓声をあげる。

　おおきな水槽がふたつ。
　岩や海草がレイアウトされていて、南の海のなかのよう。
　懐しいなぁ。
　って、ちょっぴりホームシック気分なあたし。

「でも、学校でこんなこと、よく許してもらえましたね」
「学生の頃からの趣味でね。授業でも使うって言い訳で、こんなことさせてもらってるんだ。
　この学校は自由な気風が売りだってのは、生徒にだけじゃないね。理事長の方針らしいけど」
「ねえねえ先生、これなんて魚ですかー？」
「それはチョウチョウウオ。こっちはルリスズメダイだよ」

　狭い水槽だけど、ひらひら泳ぐ魚たちは、故郷を思い出させる。
　どこまでも青い、ひかり揺らめく海の底を。

　ぱしゃん。
　碧いちいさなスズメダイが、水面に跳ねた。

　ぱしゃん。
　ぱしゃん。

　魚たちは、ジャンプを繰り返す。
　飛び出し防止用のネットすれすれに、何度も何度も。

「どうしたんだろう、急に」
「美少女が三人もきたから、興奮しちゃってるんじゃないですかー」
「さつき、あんた自分でそゆことを言う」
「はっはっは。そうかも知れないね」

　ぱしゃん。

　あたしは、ふいに眩暈に襲われた。
　よろめいて、側の机に手をついてしまう。

「どうしたの、ノア。真っ青だよ？」
「わかんない……　急になんか、くらっと来たの」

　さつきも、ひーちゃんも、エイジ先生も、心配そうに見ている。

　……　イッショニ　オヨゴウヨ　……

　言葉ではない何かが、頭のなかで弾けた。
　おまえたち。
　水槽のなかの熱帯魚たち。あたしを誘っているの……？

「ごめん。気分わるいから、先に帰るね」
「だいじょぶなの、ノアちゃん」
「那神、ほんとに顔色悪いぞ」

　動悸がはげしくなるのが分かる。
　足が鉛のように重たくて、皮膚がむずがゆい。
　間違いない、この感覚は。

「送ってくよ、ノア」
「ありがと、さつき。でも、ひとりで大丈夫だから」


　あいさつも早々に生物教官室を出たあたしは、上履きを履きかえるのももどかしく、
　そのまま裏門の方向へ走った。

　どうしよう。
　身体が人魚に戻りたがってる……！

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