歌姫の休日（１）

「暇だな、サキ」

　淡青色の燐光を放つ半球から手のひらを離し、彼女はつぶやいた。
　ほそい指が離れると同時に半球は光を失い、部屋に満ちていた脈動が、低く穏やかになってゆく。

　〈古き海竜〉を祀（まつ）る神殿、その奥の院。
　ここを神官たちは〈星見の間〉と呼んでいる。

「なべてこの世はこともなし、祝福を授けるべきペアもなし、か。二十年ぶりの目覚めだというのに、
　わたしには何もすることがないのか？」

　可憐な見かけには似つかわしくない口調で言い捨てて席を立つと、肩越しに髪をはらいのける。
　白い肌。つややかな銀の髪は、背を覆うほどに長い。

「暇ですって？　とんでもありませんよ、マスター。見ていただく星が、まだいくつも残っているのに」

　そう応じる青年は、長い黒髪をひとつに編み、肩から前にたらしている。彼女よりずっと背が高いが、
　格別に長身というわけではない。彼女が小柄で、せいぜい十二、三歳にしか見えないからだ。
　彼女は、透き通ったアクアマリンの瞳でサキをにらみつけながら、不満をいっぱいに顔に出す。

「星なんて、もう見飽きた。サキ、おまえだって星見くらいできるだろ？　こんなことなら、
　もう十年ばかり、眠っているんだった」
「面白くないことばかりでも、ないでしょう」

　一歩ずつ踏みしめるように回廊へ向かう彼女を追いかけながら、サキは苦笑を浮かべる。
　ふたりが進むにつれて壁に淡い灯火がともり、通り過ぎるそばから消えてゆく。
　灯りなどなくとも彼らに不自由はないのだが、この場所を設計した者たちが、そのように
　作り上げたのだ。

「面白いことなんて、ひとつもない！」

　彼女は憮然として言い放つ。
　おぼつかなかった足取りも、歩くにつれて、軽やかと言えるほどに回復してきている。
　無数の部屋と回廊の端々に、彼女の精神に触れてくる神官たちの気配を捉えることもできた。
　だが、それらは、この前に目覚めたときより数を減じ、広大な神殿の空虚さを強く感じさせもした。

「目覚めるたびに誰かがいなくなってるし、子どもは滅多に生まれやしない。ライカもヨーコも、
　行方知れずのままだろう。おそらくは、ふたりとも……」

　語尾がかすかに震えを帯びる。
　長い歳月を経ても彼女のこころは柔らかく、傷つきやすかった。

「マスター」

　いたわりを込めて、サキが呼びかける。

「わたしの決断の結果を、ご存知でしょう？　あの子たちが、地上と海を結んでくれるかも知れません。
　そうしたら……」
「聞きたくないな。おまえの選択が正しかったとしても、あのとき、わたしが許しさえしなければ、
　ライカを失うこともなかったんだ！」

　激した自分を抑えるように、彼女は立ち止まり、かぶりを振った。

「すまない。おまえの方が辛いだろうに」
「いいえ。それにわたしは、彼が生きていることを信じていますから」

　あたりに満ちる潮の香。

　回廊の終端、天井の高い広間には、床がなかった。すぐ足元に深い藍色の海面がのぞき、決して陽光を
　あびることのない冷たい水がもたらす、ひんやりした空気が漂う。
　水辺に立った彼女は、白い長衣をするりと床に落とし、一糸まとわぬ姿になった。

「マスター！」
「わかった、サキ。あとで聞くよ。いまいましい眠りが訪れないうちに、散歩くらいさせてくれ」

　言うなり、ちいさな飛沫をあげて、彼女は水に身を投じた。
　身をひるがえし、深みに向かう。水面を叩いたのは白い素足ではなく、大きな透き通った尾ひれだった。
　水に入った彼女の半身は、きらめく鱗に覆われたしなやかな魚体に変化していた。

「……相変わらず、お師匠さまの寝起きは最悪だな」
　ひとり残されたサキは、ちいさく息をついて長衣を拾いあげ、回廊の奥に姿を消した。

つづく。　 【NEXT】 　ひとつ戻る