歌姫の休日（５）

「おまえたち、さっきはいったい、どうしちまったんだ」
　ショーのあと、プールサイドに口吻を突き出して、トレーナーにエサをねだるイルカたち。指
示にもないジャンプを繰り返した後、なにごともなかったかのように、プログラム通りの演技に
戻ったのだった。
　それにしても、あのときのイルカたちは興奮しているだけではなく、ひどく嬉しがっていたよ
うに思えた。トレーニングでも遊びでも、あんなふうに高く、連続して飛んだのを彼は見たこと
がなかったし、ショーの段取りは狂ったものの、むしろお客は喜んでいたくらいだ。

「まったく。客席に恋人でも来てたってのか？」
　ともに日々を過ごしていても、地上の人間であるトレーナーにはイルカの言葉がわかるはずも
なく、騒ぎの原因が最前列にいた銀髪の少女で、彼女が席を立ったから収まったなどとは、知る
由もない。


　優と隆之がイルカプールに着いたとき、そこは無人だった。イルカたちも大プールにつながる
水槽に戻ってしまっている。通常ならもう一度、イルカショーが行われるはずが、『都合により、
本日最終回の公演は中止させていただきます』との表示とアナウンスがあった。

「甘かったな。次のショーで見つけられるかと思ったんだが」
　がらんとした客席から、騒ぎのかけらも残っていない、静かな水面を見渡す隆之。
「あの痛みかたじゃ、遠くへは行けないよ」
「だからって、こんな広い場所で、ヒントもなしに探しようがないぞ」
　優はつかのま考えこみ、「大丈夫、手がかりはあるから」と隆之を見上げ、にっと笑って見せ
た。

　アクリルガラスの向こうでは、数頭のイルカがひとときも休まず泳ぎ回っている。仰向けにな
って腹を見せたかと思うと水面に駆けのぼり、また頭を下にして水底まで潜ってくる。
　優はガラスに手のひらをつけて、イルカたちを眺めている。見上げた先に、一頭のイルカがす
べるように近づいてきて、ぴたりと静止した。尾ひれを軽く動かして水中でバランスを取ってい
るイルカは、つぶらな黒い眼で、なにごとか優に語りかけているように見える。

「あっちだね。ありがと」
　駆け出す優の後ろ姿に向かって、イルカがキュリリリリ、と甲高い声で鳴いた。隆之はちらり
と水槽に視線を投げ、優を追いかける。
「手がかりってのは、こういうことか」
　どうやってか、優はイルカと言葉を交わしたらしい。彼ら海の民は、海の生きものと意志疎通
できると言うが、こうして目の当たりにしても、にわかには信じがたかった。

「探されたくないのかな、彼女、すごく上手に気配を隠してる」
　だけど、と優は隆之を振り返り、いたずらっぽい笑みとともに言った。魚やイルカが彼女を見
てないわけがないんだ、それで、どっちへ行ったのか教えてくれるんだよ。

　ときどき足を止めては水槽の中の魚に訊ね、また走り出す優。魚たちは優の前に泳ぎ寄り、く
るりと回ってみせたり、胸ビレを振ったりする。イルカのときのように『会話』できるわけでは
ないようだが、それでも情報は得られるらしい。とある水槽では、きらきら光る雲みたいなカタ
クチイワシの群れが一斉に、ざあっと音が聞こえるほどの勢いで集まってきて、隆之を仰天させ
た。そばに他の客がいなくて幸いだった、もし見られていたら大騒ぎになってしまっただろう。


　いくつもの部屋と水槽を通りすぎて、彼女に近づいたからなのか、優の足はまた痛み出してい
たが、「もうすぐだから、自分で歩けるよ」そう言って、隆之に頼ろうとはしなかった。

　ふと、身体を取り巻く空気の質が変ったのが感じられた。気がつくと、あたりに人影がない。
突然、理由もなく、この場所を立ち去らなければいけない、隆之はそんな焦燥感にとらわれた。

「タカさん、見つけたよ。次の部屋に彼女がいる」

　低い声で優がささやく。その声に、隆之は我に返った。優が声をかけなければ、彼女のいると
いう部屋を通り越し、別の階へ行ってしまうところだった。
　いったいなんで、こんなにも「ここにいたくない」と思っちまったんだろう？

「彼女のせいだよ。歌の媒介もなしに人払いできるなんて……」
　いつものように、口に出さない隆之の疑問を読みとって、優は答えた。
　拒む気持ちがそのまま力となって、周囲から人を遠ざけてしまっている。彼女は、それほどま
でに強い能力を持っているのだ。

　部屋の中央には、珊瑚礁の海を模した円柱形の大水槽。大きな窓から射し込む夕刻の光に長い
銀の髪を輝かせて、誰もいないフロアの、水槽を囲むように置かれた椅子のひとつに、ぽつんと
座っている少女。足を投げ出し、水の色をした瞳で、色とりどりの熱帯魚たちが泳ぎまわるのを
眺めている。ヒールの低いサンダルが足元に転がっていて、白い素足の甲やつま先には、あちこ
ち痛々しくすりむけた傷があった。

　年齢は優と同じくらいか、少し下だろうかと、隆之は見つもった。彼女に近づこうとしたが、
精神的な重圧を覚えて、どうしても、ある一点から先に歩を進めることができない。優が彼女の
そばへ、足をひきずりながら歩み寄るのを、見ているしかなかった。

「こんにちは」
　屈託のない挨拶に、彼女が顔を上げた。
「なんの用だ？」
　思わず笑い返したくなるような優の笑顔にも関わらず、冷淡でわずらわしげな返答。
「尾ひれが痛いでしょ。なのに、どうしてこんなところにいるの？」
「触るな！」
　背骨にひびく一喝とともに、彼女は激しい怒りをあらわにした。きゃしゃな身体の周囲に青白
い炎が燃え上がる幻影を、隆之は見たと思ったほどだ。
　優は無意識に、思念の手をのばしてそっと彼女の心に触れようとしたのだが、それが気に障っ
たらしい。ぴしりと跳ねのけられたのを感じた。

「無礼者め、誰が心に触っていいと言った。これだから、地上の血の混じった者は嫌いなんだ。
だいたい、初対面で歌もなしか？　群れの長は、おまえに作法も教えてないのか？」
　優はちいさく肩をふるわせた。なにか言いかけてやめ、気をとりなおしたように大きく息を吸
いこんで――歌い出した。隆之の耳には聞こえないのだが、優が彼らの言葉で歌っていることだ
けはわかる。


　　我が名はユウ、〈東の海〉の人魚の子
　　母は海の民マーナ、父は波を渡るレン
　　群れの長はサキ、〈古き海竜〉の祭司

　　銀の姫よ、無礼をお赦しあらんことを
　　風と潮、波と光、深淵の恵みにおいて


　彼女の表情が、少しだけ和らいだ。

「外海育ちにしては、まあまあの歌だな。サキが自慢するだけのことはあるか」
　彼女が口にした〈長〉の名に、優は目を見開いた。
「きみは誰？　サキさんを知ってるの？　もしかして、〈神殿〉から来たの？」
　気後れよりも好奇心が勝ったらしい優の矢継ぎ早な問いに、さきほどの剣幕はどこへやら、彼女
はさもおかしそうに、声を上げて笑いだした。

「わたしに名を問うのか？　面白いな、じつに面白い。久しぶりに地上に上がった甲斐があったと
いうものだ」
　さきほどから優の疑問には応じないまま、笑いを収めた彼女は、隆之に視線を移す。空間を満た
していた圧力が、突然ゆるんだように感じて、隆之は深く息を吐いた。

「そこの大きい男」
「俺にも名前があるんだ。でかいのはたしかだけどな」
「じゃあ、タツミ。頼みがある」
「今度は呼び捨てかよ！　あんたいったい何様だ」

　それでも名を呼んだのは、彼女なりの譲歩であったろうか。フルネームどころか、隆之は名乗っ
てさえいない。優には心に触るなと言っておいて、自分はひとの心を読んでるじゃないか。生粋の
人魚ってのはみんな、こうも綺麗で無礼でえらそうなのか？
　内心で苦笑しながらも、隆之は彼女の頼みを聞き入れた。


　背の高い隆之が彼女を横抱きにして退館ゲートをくぐる姿は、ものすごく目立った。ほかの客も
受付嬢も警備員も、みんなしてこっちを（おもに彼女を）見てる気がする、たぶん気のせいじゃな
いぞ。
　げんなりした表情の隆之。対する彼女はすまして言った。
「わたしだって、地上の人間に頼るのは本意ではない。歩けないんだから仕方ないだろう」
「口に出して聞いたことにだけ答えろよ。優には心を読むなとか言っただろ」
　陸の人間も、その血を受け継いでいる優も気に食わないと言いながら、隆之に向かって軽口を叩
く彼女は、なんだか楽しそうに見える。脱ぎ捨てられたサンダルをぶらさげて、優はくすくす笑い
ながら二人の後を追いかけた。

「さて、どちらへお送りしましょうか？」
『お姫様だっこ』されている彼女は、隆之の腕の中から日に焼けた浅黒い顔を見上げた。
「とりあえず、どこか休める場所へ。水はなくても構わない。それで夜中にもう一度、ここへ送っ
てきてくれないか」

　疑問形ではあっても、有無を言わさぬその口調。
　高飛車なくせに憎めない、銀の髪を持ったこの人魚の少女には、当分振りまわされることになる
のだろう、隆之はそう確信していた。

つづく。　 【PREV.】　 【NEXT】準備中　 　ひとつ戻る