「優、足をどうかしたのか？」 隆之がそう訊ねるまで、優は自分が足をひきずっていることに気がついていないようだった。 ちょっと遠出をして用をすませ、ついでに早売りのダイビング雑誌を仕入れに行った帰り道。隆之が 店長を務めるダイビングショップまで、あと少しというところだった。 「うん…… ちょっと痛いかな」 「歩きすぎたか。単車で出るべきだったな」 優は歩道に立ち止まり、ふくらはぎや足首を触ってみる。とりたててどこが痛いとかいうわけではな いのに、体重をかけると痛みが走る。だるく、重く、思うように動かない。しかも痛みは次第に強くな りはじめていた。 「大丈夫だよ、タカさん」 見るからに辛そうなのに、優はいつものように笑ってみせる。 どーもこいつは父性本能を刺激するよなあ、俺ぁ三十路といってもなりたてだし、なにより独身だっ つーのに。などと考えながら、隆之は心配そうに眺めている。出会った頃の優ときたら、すこし歩くと 息切れがする、あげくに気絶するという具合で、隆之も苦労したものだ。最近は地上の生活にも慣れて、 半日くらいなら水から離れていても平気になってきていたのだが。 「余計な気ィつかって、我慢してるんじゃないぞ」 今度は、優は答えなかった。まばたきもせず、だが、碧の瞳は何も捉えてはいない。おそろしく精神 を集中している。遠い遠いかすかな声に、耳をすましているようだ。 自分には感知できないなにものかを、優の感覚が捉えている。隆之は所在なさげにジーンズのヒップ ポケットを探り、なにも入っていないことに気付くと、首から下げたオイルライターを弄んだ。何度目 かの禁煙をはじめてはみたものの、つい習慣で持ち歩いてしまっている。 しばしの沈黙の後、優はふうっと息を吐いた。隆之を見上げ、小首を傾げる。 「これ、僕の痛みじゃない」 「なんだそりゃ。テレパシーとかか？」 「ちょっと違うんだけど。どこかで人魚が苦しんでて、その痛みが伝わってきちゃうんだ」 隆之は眉間にしわを寄せる。理解しがたい事態ではあるが、優が苦しんでいるのは事実だ。 「おまえの仲間がトラブってんのなら、放っとけないよな。助けに行かにゃならんだろ」 その真剣な口調に、優はくすりと笑った。 「笑うなよ」 「タカさんって、いい人だよね。僕、タカさんに会えてよかったなあ」 優はお世辞を言うほど器用じゃないから、本気で言っているのだろう。が、なんだかほめられている 気がしない。結果として、隆之の顔にはどうにも複雑な苦笑いが浮かんでいた。 優と出会ってから、いろいろと面倒な目に合いはしたものの、運が向いてきたと隆之は思う。 ダイビング雑誌の編集部をやめたのは、小さいながらも店を一軒まかせるという話があったからだ。 「誠実な講習と、安全で楽しいダイビングを」というオーナーの方針が気に入ったのはもちろんだ。徐々 にお客も来るようになり、赤字気味ではあるが店を続けている。 「帰ったぞ」 「おかえりなさい。……って、巽くん、どうしたの？」 店番をしていた女性が目を丸くする。隆之は重そうなダッフルバッグを肩からかけ、そのうえ優を背 中におぶっていたからだ。 「『巽くん』じゃねえ。『店長』って呼べよ、真紀子」 「じゃあ、あたしのことも呼び捨てにすんの、やめてよね。それより優くん、発作なの？ 最近あんま りなかったのに」 ちょうどお客がいなくて幸いだった。レジの奥、間仕切りで隔てただけのスタッフルームへ歩を進め る。ときには隆之の仮眠用ベッドにもなる長椅子に優を降ろし、バッグも床に下ろす。 編んだ栗色の髪を肩に跳ねさせながら、真紀子も駆け込んできた。 「真紀さん、なんでもないよ。ちょっと疲れただけ」 「ほんと？ また巽くんが無理させたんじゃないの」 「いいから真紀子、店番してろよ。あ、そこのバッグにな、メンテ済のレギュ２本入ってるから、あと よろしく。雑誌なんかも出しといてくれると助かる」 隆之の「あっち行け」とでも言わんばかりの態度に、真紀子は憮然としたが、表を無人のままにして おくわけにはいかない。優に心配げな視線を投げてから、バッグを抱えて戻っていった。 「優、マジで大丈夫なのか。その……お仲間は」 隆之はパイプ椅子を出すと腰掛けて、長椅子に横になった優に耳打ちする。真紀子は『人魚』につい て、なにも知らない。優がたびたび調子を崩すのも、持病の発作だと説明してある。 「助けに行こう」とは言ったものの、あれからすぐに、優は歩けなくなってしまった。いまも二本の 脚は人形のそれのように、長椅子の上に力なく投げ出されている。 「すごく痛いと思うよ。でも彼女、こんなに痛いのに、まだ歩いてる」 「彼女？」 「尾ひれの先がね、僕にはないのに、痛いんだ。だからきっと、女の子だよ」 『幻痛 』というやつか。 幻肢痛とも言い、たとえば手足を失った患者が、存在しない部位に覚える痛み。 彼らの種族は、男性は地上の人間と同じく足を持ち、女性には伝説通り、人魚の尾ひれがあるのだと 優は言った。人型を取っていてさえ、覚える苦痛は尾ひれのままであるらしい。 「よく分からんが、早くその本人をなんとかしてやらんと、先におまえの方がまいっちまうぞ」 隆之は胸の前で腕を組み、渋い顔をした。
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