蒼い呼び声　（２）

　小鳥たちを引き連れて、少女が空に舞っている。
　重力から解放された三次元のダンス。
　彼女のまとう薄物の、裾がふわりとひるがえる。
　翼を持ってもいないのに、少女はたおやかに、宙を舞う。

　いや。
　彼女を取り巻いているのは、鳥じゃない。
　キンギョハナダイ、ソラスズメダイ、チョウチョウウオ。
　鮮やかに彩られた熱帯の魚たち。

　ここは空ではなく――
　海の底だ。

　　　　　　　　　　　　＊　　　＊　　　＊　　　＊


「居眠りなんて、珍しいじゃない。徹夜で勉強でもしてるの？」
「そんなんじゃないよ。頼むから、放っといてくれ」
「なによ、心配してあげてるのに。深見くんたら、冷た〜い！」

　終業のチャイムと同時に、千秋に肩を叩かれて、蓮はようやく現実に帰還した。どうやら、最
後の時限まるごと、眠ってしまっていたらしい。目尻に涙をにじませてあくびをひとつ、蓮は教
科書や筆記用具をバッグに詰め込み始めた。
　期末試験も近いから、短縮授業になっている。いったん帰って、着替えてから定時診断に行く
つもりだった。父は泊りがけの出張で、数日前から留守にしている。自分ひとりの夕食は、検査
のあと、適当にすませてしまおう。いや、その前に……
「数学、教えてくれないかなぁ。代わりに古文と現国はヤマ教えたげるから」
　蓮の思考は、明るい問いかけで中断された。
「放っておいてくれって、何度言わせるんだよ、千秋」
　千秋はぷうっと頬をふくらませ、深見くんのバカ、赤点取って補習で泣いても知らないから、
と、肩をいからせて立ち去る。
　自分がいらついているのも、彼女の好意もわかっている。それだけに、彼女に告げることはで
きなかった。最近では、じっと座って授業を受けることも苦痛で、期末試験どころか、いつまで
こうして生活していられるのかすら、分からないのだと。

　蓮の精神と肉体は、ひたすらに海を求めていた。
　一面の青の中に身を置くこと、どこまでも深く潜っていくことへの、気も狂わんばかりの渇望。
早退しようと思ったことも一度や二度ではない。俺はもう、気が狂っているのかも知れないな。
そう自嘲したくもなる。
　そのうえ、ここ一週間ほどは、夢見が悪いと言ったら控えめなほど、眠りに落ちるたびに、ひ
とつの幻影に支配されていた。空気のように澄んだ海の中を舞う少女の姿。美しく、胸をかきむ
しるような郷愁さえ呼び起こす。悪夢ではない。しかし、目覚めてからも鮮やかに脳裏に蘇り、
ともすれば思考が空転するようでは、正常な状態とは、とても言えまい。
　あまりにも鮮明な、懐かしい夢。彼女が何者かは知る由もないが、夢の形をとったメッセージ
だとするのなら、彼女はどこかに実在するというのだろうか。


「夢を見るって、どんな？　詳しく話せるかい、蓮くん」
　闇の向こうから、高山の声が聞こえる。
　目を開けても視界はぼんやりとして、意識は聴覚だけに集中している。明かりを落とした海洋
生物学研究室。
「女の子が――俺と同じくらいの年齢に見える……　その子が、海の中でダンスしてる」
「海の中で？」
　まぶたの重さに耐え切れず、蓮は再び目を閉じる。身体全体もずっしり重く、自由がきかない。
くたびれた布張りのソファに横たわっている自分を意識している。何故、高山さんは夢のことな
んか訊ねるんだろう。なんで俺はこんなところで寝てるんだろう？
　疑問は言葉となって発せられることはなく、舌は自動的に高山の質問に応じている。
「彼女は、透明な水の中で踊ってる……　楽しそうに、空を飛ぶように、周りの魚たちが小鳥の
群れみたいに見えて……　綺麗で、懐かしい気がする」
「懐かしい、だって？」
　高山の口調が熱を帯びる。意識の片隅がそれを感じている。
「懐かしいんだ……　とっても」
「ほかになにか感じたことはある？　その、夢を見て」
「帰りたい……　海に」
　高山の顔に、これまで見たことのないような興奮の色が浮かぶ。目を閉じているはずなのに、ど
うしてか蓮にはそれが分かった。それを不思議に思う間もなく、意識は溶暗した。



「あいて。なんか頭痛い」
　Ｔシャツをかぶり、裾をジーンズの上に引き下ろしながら、蓮は、こめかみににぶい痛みを覚え
た。検査の途中で蓮は眠ってしまったのだと、高山は言った。定時診断に来て、いつも通り、高山
さんに診てもらって、そして。蓮の記憶はそこで途切れている。寝不足だったし疲れていたから、
寝てしまっても無理はない。時計も、最後に見たときから１時間ほど進んでいた。
「大丈夫かい。仮眠室開けるから、もう少し休んでいってもいいんだよ」
「ありがとう、高山さん。でも俺、帰ります」
　高山の、いつもと変わらない誠実な、心配そうな口調。
　なにか、心に引っかかるものがあるけれど、それがなんだか分からない。蓮は身支度を整えると
早々に研究室を辞した。

　休むより、海へ行こう。ひと泳ぎしたほうが、今の自分には休息になる。蓮は海沿いの道へ足を
向けた。
　夏の長い一日も夕暮れを迎え、海は群青色に沈んでいる。陽光の名残は、わずかに水平線上を彩っ
ているだけだ。水面に飛沫を上げて、蓮は夜の海に身を預ける。



　門柱の前に、人影が佇んでいる。ほっそりした、小柄な姿に見覚えはない。わざと足音を立てる
ようにして近づくと、相手がこちらを振り向く。
　外灯の明かりに浮かんだその容貌に、蓮は息を飲んだ。
　腰まで届くつややかな黒髪。日系の外国人なのだろうか、猫のような、印象的な緑色の瞳。
　すげえ美人だ、蓮は思い、次に言葉の心配が心に浮かぶ。英語は苦手ではないけれど、しょせん
受験英語、とても外国人と話せるほどじゃない。
「深見教授のご子息ですね？」
　きれいな日本語、心地よい響きを持つアルトだった。蓮の狼狽を察したように、相手はあでやか
に微笑む。たくさんの花弁を重ねた大輪の花、薔薇とか芍薬とかそういう花が、はらりと咲きこぼ
れたみたいだ。蓮は、ひどく赤面しているのを自覚した。頬が熱い。
「あ、あ、ええ、そうです。あなたは？　父はいま留守なんですけど」
「父君がご不在であることは存じ上げています。あなたに会いに来たんですよ。蓮くん」

　数分かそこらしか経っていなかったと思う、蓮は気付くとただひとり、夜道に立ち尽くしていた。
謎めいた客はサキとだけ名乗り、
「力になります。困ったときには呼んでください」
そう言った。どうやって、との問いにはあのあでやかな笑みとともに、声で呼んでくれても、心の
中で名を唱えてくれても構いませんよ、と冗談めかした返答。
　蓮が反応に窮していると――あるいは、見惚れている間に、サキは姿を消していた。夢にしては
生々しい、耳に残るアルトの声と、かすかな残り香。

　それは、華やかなフレグランスなどではなく、なじみ深い潮の香りだった。

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